「グランドキャニオンの夕日」
僕は、太陽が地平線や山の向こう、ビルの谷間に沈む瞬間、つまり「夕日」の時が一日のうちで一番好きになった。
「好きになった」
そう、かつてはあまり好きじゃなかった。
日本にいた時は夕日なんか見ることがなかった。仕事をしていたら毎日、気が付いたら日が暮れてたから、ゆっくり夕日を眺める余裕なんてなかったし、見たいとも思っていなかった。逆に日々仕事に追われて、日が暮れてからも仕事をしているのが嫌で「太陽なんか沈まなければいいのに」と思っていたほどだった。休みの日、たまに見る夕日も折角の休日が終わっていくのを感じるその瞬間が憂鬱にさえ感じていた。
太陽が地平線に沈み始めてから、全て沈みきってしまうまでの僅か数分が一日のうちで一番、時間の流れる速さを感じるいやな時間だった。
世界旅行に出てからは自然と夕日を見る機会が多くなって、アメリカのグランドキャニオン、キューバのカバーニャ要塞、メキシコのイスラムへーレス、ペルーのアマゾン、旅の途中で意識的に夕日を見にいく事もあり、嫌いだった夕日は旅が前に進んだ証みたいになり、いつの間にか一日の中でこの瞬間が一番好きになっていった。
この旅で始めて夕日を見に行ったのはアメリカ、グランドキャニオンの「デザートビューポイント」。グランドキャニオンで夕日を見るにはこの場所が一番いいらしい。バスの出ていないこの場所まで行くのにわざわざレンタカーを借りた。
ここから見る大渓谷はコロラド川がはるか谷底に辛うじて肉眼で確認できるというぐらい深く、地平線の遥か彼方まで崖が続き、恐ろしく感じるほど広い。昼間に見ても、その壮大さに思わず息を呑んでしまうほどで自然の作った見事な彫刻に感動というか圧倒させられる。更に、太陽が沈み始めると只でさえ赤いグランドキャニオンの大地は一層赤く染まり、目の前は、夕日に照らされた「赤」とその反面影になる「黒」の二色だけの世界になり、見事な「赤」と「黒」のコントラストの大渓谷は、今まで見たことのない地球だった。
太陽の沈む瞬間、同じ方向、沈み行く太陽の方向を見て太陽が沈みきるまでの僅かな時間をここに集まった全ての人が共有しているのを感じた。周りの人を見ると同じ太陽を見てそれぞれの思いにふけっているようだった。
僕は、目の前に広がる大渓谷を作った何千億年と言う時間と、太陽が沈みきってしまうまでのほんの僅かな時間と、自分の生きてきた32年と言う時間が頭の中でぐるぐると回り、「地球」と「宇宙」と「自分」全てが存在することの意味について深く考えていた。誰が作ったのか、誰のために作ったのか、何のために作ったのか、なぜ僕が生まれたのか、一生かかっても解決できないような疑問で頭の中がいっぱいになっていた。そして、何の答えも出せないままに太陽は静かに沈んでいった。
ふと、我に返り自分の手のひらを眺める、自分の存在がまだ不思議に思えた。自分が広い宇宙の中の小さな、小さな太陽系の更に小さな地球で生きていることがありがたいことの様に思えて、生きていくこと「命」の大切さを感じた気がした。
夕日を見る前、旅に出るにあたって悩んでいた事がいっぱい在って、家族の事も心配だったし、大好きなお婆ちゃんは80歳を越えてるから死に目に会えるのかどうかが不安だった。自分のこれからの事も心配だったし、一緒に旅をする彼女の事も不安だった。数え切れないほどの心配や不安な要素が僕の心の中で霧の様に悶々として折角の世界旅行を憂鬱にさせる時があった。
グランドキャニオンの夕日を見た後、その霧はきれいになくなって、折角与えられた「命」を本気で楽しまなきゃ損だと感じた。旅を楽しみたい気持ちでいっぱいになった。
これから二年間、地球を一周することになる。目の前に広がる馬鹿でかい渓谷を見て圧倒された自分はもう居ない。「何があっても頑張るぞ!」誓いの言葉のように心の中で響いた。
しばらくすると東側からは紫色の夜が全てを覆い隠すように静かに襲ってきてフラッグスタッフの町に帰る途中に完全に闇になってしまった。
アメリカだと言うのにここには街灯一つない。車のヘッドライトだけが頼りで、なれない左ハンドルの車をかなり緊張気味に走らせていた。途中、休憩のため路肩に車を止る。ライトを消してエンジンを切ると満天の星空が頭の上に広がっていた。
「夜がこんなに明るいなんて」
旅が始まってまだ間もないのに新しい発見ばかり。これから二年間の世界旅行が楽しみになった。
「嘘」
これまでの人生で
何人に「嘘」をつき
どれだけの人を騙してきただろう?
一番僕に騙された<
一番かわいそうな人を探すため
騙した回数と
その酷さをグラフにして
順位をつけた・・・
一番上に書かれたのは自分の名前だった。
「間違いだらけのメキシコ」
旅に出る前、メキシコと言えばとんがり帽子にポンチョ、髭、スナック菓子のドン・タコスのキャラクターのようなイメージしかもっていなかった。
日本にあるメキシコ料理レストランもみんなそんな感じで耳慣れないスペイン語の陽気な曲を流して、まさしくとんがり帽子の似合いそうな雰囲気を演出している。
そのほかに僕が知ってるメキシコは、映画で見たブラッド・ピットが出てる「メキシカン」やアントニオ・バンデラスがでてる「レジェンド・オブ・メキシコ」で、だだっ広い砂漠を長い道が続き、乾燥した大地に砂埃が舞い、腰には拳銃を刺して、みんなポンチョを着て、とんがり帽子か、ウェスタハットをかぶってギターを持っている感じだった。
明らかに人を騙しそうな怪しい風貌に(その当時はものすごく胡散臭く聞こえた)スペイン語が、メキシコ人は悪いやつに違いない、メキシコ人はみんな人を騙すことが当たり前だと思っている人種だ。と、かなり頭ごなしに決め付けて、「怖え〜、おっかね〜」とメキシコに対して完全に悪い印象しかもっていなかった。
だから、初めてアメリカとメキシコの国境を歩いて越えたときメキシコ人がジーパンを穿いてシャツを着て自分達と変わらないお洒落な格好をしている姿を見て驚いた。
日本人とは多少流行が違う物の、彼らなりにしっかりとお洒落をしているというのが伺えて、失礼な話しだけど「えっ!マジで!」て思ってしまった。ヒゲも生えてなかった。
むしろ、長期貧乏旅行中でカッコなんか気にしていられない自分達の方がはるかにダサく、胡散臭くさかったのだった・・・。自分より、カッコイイ格好をしているメキシコ人を見たときちょっとショックだった。
メキシコ北部、チワワ鉄道へのアクセス地ロスモチスにバスでついた時、既にあたりは暗く、歩いて宿を探すには危険な時間帯だった。それなのに「お金を使うのがもったいない」という、それだけの理由で、重い荷物を持ったまま暗闇の危険な町へ繰り出していった。
この頃、ガイドブックを全く持っていなかった僕達は、コンビニなどのお店や道端に居る人を尋ね歩きながらかなり地道に宿を探していた。なにも知らないはじめての街で宿を探すとなると日本でも大変だというのに日本語はもちろん英語も殆ど通じないメキシコでスペイン語が全くといっていいほど喋れない僕達がこの方法で宿を探すのはかなり無謀の様に思えるが、いつもその方法を使って宿を探していた。
そのおかげでメキシコ人の面白い習性というか性格に気付いた。メキシコで道を尋ねると必ず答えてくれる。
日本の様に道を尋ねられて「解らない」と言う人は殆ど居ない。
ましてや、「外国人が話しかけてきた」と無視して通りすがる人はまずなく、片言のスペイン語しか話せないぼくたちにも真剣に対応してくれる。
決まった場所であれば「わからない」と答える人も居るのだろうが、「ホテルは何所にある?」みたいに特定の場所を示さない場合、たとえ、本人が知らなかったとしても一生懸命に考えて必ず答えてくれる。その時、決まって言うのが、「3本目を左」。「右」の場合もあるけど・・・。ぼくたちは、この「3本目を左」にメキシコ入国当初、何度も騙された。
そう、彼らは、たとえホテルの場所を知らなかったとしても必ず答えてくれるのだった。解らないなら、「解らない」と言って欲しかったが彼らは決まって答えてくれるのだった。たまにほんとうの場合があるから一概に騙してるとも言い切れないけど、たぶん、メキシコ人の性格上、「わからない」といえないだけなのだ。たぶん、プライドが許さないのだろう。悪気があるわけではなく、道を尋ねたときの彼らの一生懸命に考える姿を見る限りでは「何とか僕達の力になりたい」という気持ちからそういう風に答えているように見えた。
そんなわけで道を尋ねる人はかなり選ばなきゃならないということに気付いて、もし「3本目を右」とか「左」とかいわれた場合にはしばらく歩いてからもう一度、他の人に尋ね直すようにしたのだった。
その日も、何度かの「3本目を左」に引っかかりながらも諦めずに人を尋ね歩いていた。すると、車を止めて若いメキシコ人が、近づいてくる。
「何してるんだ?」とメキシコ人
「ホテルを探してる」と僕、
「じゃあ、俺の車に乗れ、俺がホテルまで連れて行ってやる。」
気さくなメキシコ人は見知らぬ日本人のホテル探しに付き合ってくれて、お金を請求するわけでもなく、車の中でメールアドレスを交換して、家族の話を聞き、何もなくホテルまで案内された。「明日、駅まで送って欲しかったら電話しろ」彼は、そう言って帰ってしまった。
翌日、チワワ鉄道の駅に行くのにガイドブックを持たない僕達はどう行ったらよいのかさっぱりわからず、近くを歩いていた高校生に声を掛けた。
一人の高校生に声を掛けたつもりだったのに、周りに居た 10人ぐらいの高校生がいっせいに対応してくれてバス停まで連れて行ってくれた。バス停まで向かう途中みんなで写真を撮ったりして、大騒ぎ、何所の国でも高校生は元気がいい!学校で覚えたての英語で一生懸命話しをしてスペイン語の殆ど分からない僕達に凄く親切にしてくれた。
翌朝、昨日の学生達に聞いたバス停に向かったがバスがなかなかこない。不安になって一緒にバスを待っているお兄さんに話しをすると僕達の乗るバスは朝の時間帯は違う所から出ているとの事だった。そして、そのお兄さんは、自分もバスを待っているのに僕達を歩いて
5分ほどのそのバス停まで案内してくれた。もちろんお金を請求されるわけでもなく。笑顔で快く案内してくれた。
チワワ鉄道に乗って、17歳のメキシコ人の少年と友達になった。彼は少しだけ英語が話せて、お互い片言の英語でそれなりにコミュニケーションが取れた。電車に乗っている間、彼の家族を全員紹介された。弟に始まりメキシコの郷土料理「タマレス」を作るのが上手い親戚のオネーチャンまで、かわるがわるいろいろな人が僕に話しかけてくる。日本人の僕には理解しがたかった、知り合いになって間もない僕を家族の人みんなに紹介するなんて・・・。
だいたい、友達を家族に紹介する様な事がない。
彼は「もしまたロス・モチスに来ることがあったら連絡しろ。」そう言って僕と別れた。
チワワ鉄道をクリールという街で下車して観光し、次の町チワワの町まで向かうとなったとき、ホテルに遊びに来ていた近所のおじさんが明日チワワの町まで向かうから僕達を車に乗せてくれるという。いくらかかるのかと聴くと「無料」でいいとの事、片道
6時間を「タダ」でいいとの事だった。
何の遠慮もなく彼にチワワまで送ってもらうことにした。
途中スペイン語を色々勉強させてもらったりして凄く充実した移動だった。
途中の街で彼の仕事があるので、時間ほど待たされた。
ガイドブックにも乗らないようなその町を大きなバックを持って徘徊していた。疲れ果てて、アイスクリーム屋さんに入って休んでいると優しそうなお婆ちゃんとその家族連れが話しかけてきた。
「何所から来たの?」
「写真を撮らせてくれる?」
僕には、意味がわからなかった。
どうやら始めてみる東洋人が珍しいらしい。
僕は、快く写真を撮ることを引き受け、おばあちゃんと一緒に、娘と一緒に、孫と一緒に、結局、 3枚も写真を撮った。
彼女は、「泊まる場所がないなら、私のうちに来なさい」そういって去っていった。
更に、街を徘徊していると、今度は中学生ぐらいの制服を着た女の子の集団につかまった。
マシンガンの様にスペイン語で話しかけてくるので、なにを言っているのかさっぱり解らないが、どうやら、「名前を書いて欲しい。」と、言っている。
僕は、また、意味がわからなかった。
「僕の、名前でいいの?」
僕の名前でいいらしかった。十
数人の女の子に囲まれて差し出されたノートに僕の名前を書く。
少女達は、見慣れない東洋の文字を見て嬉しそう。その姿を携帯電話のカメラで写す。僕も、みんなと一緒に写真を撮った。若い女の子の集団に囲まれる姿は、さながらアイドルにでもなった気分でうれしかった。
どうしてそうなったのか覚えていないけど最終的には一緒に旅を続ける彼女とキスをしろといって、見知らぬメキシコの町の公園で女子中学生らしき集団は僕達を中心に「キッス」コールをしだした。仕方なく彼女のホホにキスをした。女子中学生たちはその瞬間を嬉しそうに、これまた携帯電話のカメラでパシパシと撮り、さながら結婚式のようだった。
その騒ぎが終わったあとも何度となく話しかけられ、メキシコ人は想像を絶するほどに人が良く、ひとなつっこかった。
その後、待ち合わせ場所に戻ると、待ち合わせ時間の10分も前だというのに既におじさんが待っていて
「早いね!」
と僕がいうとおじさんに言うと
「メキシコ人は 10分前行動だ!」といわれて驚いた。
こんなメキシコ人も居るのか。
チワワの町では、マニュエルとエバいう路上でアクセサリーを売る僕より3つ年下の青年とその奥さんと友達になった。
きっかけは彼が、路上で商売していた「ヘナ・タトゥー」に興味があって話しかけたことだった。
彼らは、家に招待してくれた上に、メキシコで最も美味しいソースだといわれるカカオをつかった鶏肉料理「モレ」を手作りしてくれ、翌日はしっかり朝ごはんまで用意してくれた。
泊まらせてもらった夜も近くの公園のフリーライブに遊びに行き、お洒落なカフェでお酒を飲み、友達を紹介され、観光客では味わえないメキシコをたっぷりと楽しませてもらった。
会ったばかりの得体の知れない東洋人の僕達に信じられないほど親切にしてくれた。もちろん宿泊費なんか払っていない。飲み代も割りカンだとマニュエルは言い切ったが申し訳なかったのでチップだけは余分に僕達が払ったぐらいだった。
翌日、バス停へ向かうまではマニュエルの友達のジソスがバス停まで30分を一緒に付き添ってくれた。
メキシコシティーで地下鉄に乗っていたら突然日本語で話しかけられた。
後ろを振り向くと若いメキシコ人青年が流暢な日本語で話しかけてくる。
「日本人ですか?」
僕が、
「そうだと。」と答えると、
「僕は、日本に行ってたことがある。今夜遊ばない。」との事だった。
地下鉄の駅で言ったら僅か一駅、時間で言ったら二分ほどの会話だったと思う。その僅かな時間で待ち合わせの場所を決め、夕方に再び彼に会った。
正直待ち合わせ場所に彼が来ることを期待していなかった。おそらくお互いにそう思っていたのだと思うけど、彼は、僕達よりも先に待ち合わせ場所について待っていた。
彼は、まだ二十歳で、メキシコ・シティーでプロのボクサーをしている、数ヶ月前まで試合をするために日本に居たのだと言うことだった。
その夜、彼と彼の友達と4人でメキシコの町まで呑みに行った。
メキシコはビールが美味い!料理が美味い!久しぶりに繰り出す夜の街は凄く楽しかった。
飲みだして3件目、時間も10時をまわっていたと思う、怪しいメキシコ人が僕たちに絡んできた。
始めは簡単な言い合いに始まり、お互いにお酒も入って勢いが付いているせいか争いはあっという間に激しさを増し、つかみ合いになり店中大騒ぎ、殴りあいに発展するギリギリまでなって店員に抑えられ店を追い出された。
僕も調子に乗って、片言の英語で「シャッタ・ファック・アップ!!」って叫んでいたら相手のメキシコ人が向かってきた、それを、ボクサーの彼は前に立て守ってくれた。
二十歳の少年に守られることに抵抗があったけどおかげで僕には何の危害もなく無事その場はおさまった。
海外での始めての喧嘩だった。
ちょっと怖い思いをしたけど、いい思い出になった。その後も彼とはメキシコ・シティーに居る間何度となく飲みに行った。
彼は、いつでも僕達におごろうとする・・・。
いくら貧乏旅行で僕達にお金がないと言えども二十歳の少年におごられるわけには行かないのでいつも割りカンにしていた。
その後もメキシコ人にはかなり親切にしてもらった。
メキシコ人の間では「ミ・カサ・トゥ・カサ」の意識が根付いて、何所に行ってもこの言葉を良く耳にした。最初は何のことだかわからなかったけど。
その意味は「自分の家はあなたの家」だということだった。彼らは、すなおにその精神を貫いているに過ぎなかった。
日本に居るとき仕事関係で付き合う人間関係が多く、それほど真剣に人と付き合うことが少なくなってきていた、メキシコは僕に日本でなくしてしまった大切な物を思い出させてくれた。
メキシコ人は優しかった。
ポンチョも着てなかったしひげもはえてなかった。
騙そうとする人なんか殆ど居なかった。
確かに悪いやつも居るけど、全員がそうではなかった。僕
が、見たメキシコは旅をする前に日本で想像していたメキシコとはかけ離れていることに驚いた。
僕達が日本でメキシコだと思っている物は「テックス・メックス」といわれる、アメリカの文化とメキシコの文化が混ざった物で、わかりやすいところで言うとメキシコにチーズのたっぷりかかったナチョスは無く、これはアメリカ製だった。日本で見かけるタコスも殆どがアメリカ製。日本で見かけるようなタコスはメキシコ中探しても見当たらない。
メキシコに来るまで気が付かなかったけど僕達はかなりの量の海外の情報をアメリカというフィルターを通して見ていることが多いのだと知った。
海外の国から直接入ってくる情報よりもアメリカのニュースを通してやアメリカの雑誌を通して入ってくる情報が多くアメリカというブラックボックスを通った情報しか日本に入っていないことが良く解った。
それは、僕たちはいつの間にかアメリカよりになっていると言うことだった。
日本には間違いだらけの海外の情報が氾濫していることが良く解った。
自分の住んでいる先進国日本がお粗末な国に思えた。