〜このホームページは、仁とさおりの
       
世界一周旅行の記録です。
    いつまで続くのか?どこまで行けるのか?〜


seka_sora@yahoo.co.jp

お待ちしてます
 はじめに
「砂時計」

砂が落ちるだけの人生

平均すればたかだか80年の砂時計

最初の一粒が落ちたときから

砂は流れ続ける

最後の一粒が落ちるまで


 二十一世紀を向かえて時代の進むスピードはますます加速して、僕が日本で感じている以上に世界は小さく小さくなった。パソコンは世界中に普及してインターネットで日本に居ても世界中の人たちとコミュニケーションが取れてしまうし、世界中の何所に居ても携帯電話が通じてしまう。こんなにも世界が、僕が生きている間に変わってしまうなんて思いもしなかった。

 僕がまだ子供だった頃、電車で隣町まで出かけることすらまだ大冒険で小学校に入って初めてお祖母ちゃんの家まで一人で電車で出かけた時も緊張のあまり泣き出しそうで、何度も遠ざかる家を振り返っては歩いた記憶がある。まだ携帯もなかったこの時代に親も心配で僕以上に緊張したに違いない。
 
 中学生になっても地元を離れることなんて考えられなかったし、ましてや日本を離れることなんて考えたこともなかった。
 はじめてチョットだけ世界を意識したのは、高校2年生で湾岸戦争が始まった時。学校の視聴覚室で開戦の状況のニュースを見せられ、遠くはなれた地球のどっかで起こっている重大な事件に「何で戦争なんてすんのかなー。」「日本が平和でいいな〜、日本人でよかった!」って空っぽの頭で考えてた記憶がある。
 
 初めて飛行機に乗ったのは高校の修学旅行で九州、沖縄まで行った時。高所恐怖症の僕は、飛行機が何で飛んでるのか、鉄の塊が空を飛ぶことに信用が出来ずあまり楽しめなかった(今でも飛行機は嫌いだけど)。担任の物理の教師が飛行機の飛ぶ理由を自慢げに話してたけどそんなこと僕にはどうでも良かった。
 この頃はほんとに僕の世界は狭かった、狭くてよかったし学校の行き来で起こることだけで殆ど楽しかった。
 
 大学に入ってから音楽を始め洋楽を聞きだしたせいで僕の中の世界は少し広がって日本とアメリカになった。
 この頃、プレイステーションをしているのは日本とアメリカだけだと思ってたし、ポケベルやその頃やっと普及し始めた携帯を使うのも日本人とアメリカ人だけだと思ってた。
 日本人やアメリカ人は裕福で他の国よりいい暮らしをしてて、日本人とアメリカ人、ヨーロッパ人以外はみんな難民だと思ってた。
 日本は、世界で唯一戦争を放棄して軍隊がない国でアメリカが日本を守ってくれてる。裕福な日本はお金が在るから大丈夫!!日本にいれば幸せだ!!なんて思ってた。
 
 大人になるまで間違った情報と勝手な自分の勘違いで世界を見ていたことは否めないし、今考えると笑ってしまうけど、世界旅行に出てからわかったことや気付いたことは計り知れないほどある。それでも世界の事でまだまだ自分が勘違してることもいっぱいあると思う。



「婆ちゃんの言葉」

足跡を残しなさい

振り返った時に何も無かったら

悲しいから・・・



「日本と世界」
どこの国の人もそうなのかもしれないけど、やっぱり心のどこかで自分の国が一番だと思っている。
 例えば日本人の場合だと「日本の技術は世界一」だとか、「ソニーは凄げ〜」とか「車はトヨタだ」とか「日本人は金持ち」だとか・・・。
 とにかく日本の誰かが凄いことをあたかも自分が凄いかのように自慢したくなって、そんな凄い日本人がチョッと他人より優れている特別な存在だと思えてくる。
 日本のテレビ番組だって全部、日本の事が中心だし、日本で売ってる世界地図だって日本が中心。日本に住んでいたら「日本人は世界中でも特別な存在なんだ」って思っても普通だと思うし、あたかも世界は日本を中心に回ってるんじゃないかって思えても仕方ない気がする。世界の事はどうでもよくて、極端な話し「日本だけ平和であればいいじゃん」って思う日本人になっても仕方ない。
 世界中のニュースが毎日、テレビやインターネットで見れるのにその国に行くことは一生ないわけで「あーこんな国もあるんだな〜」とブラウン管の中の出来事として捉えてしまって、テレビで移るその国のほんの一部のことがあたかもその国の全てであるかのように考えてしまう。
 実は、日本語は日本でしか話されていないから、全ての情報が翻訳される時点で日本語でもわかりやすいように微妙にニュアンスが変わって、チョッと日本的な見方になってしまっている。どこかの国のように情報が操作されているとは言わないけど、結果的に情報が制限されていることは間違いなくて、本当の世界がどうなのか自分の目で確かめなくちゃ本当のことはわからない、本当の世界はどうなっているんだろう?



「わがまま」

人の気持ちなんて分からないから

自分らしく生きるしかないんだ




「日本人として・・・」
 海外に行くといつも思うのが、二つの顔を持たなくてはいけないって事。一つは日本人としての顔、もう一つは自分としての顔。
 
 海外で何か自分だけの特別な癖をしたとしてもそれは日本人がすることだと捉われて、「日本人は・・・」とか「日本では・・・」とか言われたりする。日本で生活していたら「日本人」って言われることは全く無いけど、海外に行けば「日本人」って言われることしかない。
 たまに「アジア人」と一括りにされて中国も韓国も香港も全部一緒の国だと思っていたりして、よくあるのが「お前は何人だ!」って聞かれて「日本人」と、答える。なのに、次の瞬間、「日本の何所だ、中国?韓国?香港か?」と聞かれる具合。
  「日本の映画は凄いよな!俺はジャッキー・チェンが大好きだ!」なんていわれたりする。「ジャッキー・チェンは日本人じゃないよ」って言うと、「ブルー・スリーは凄いな」っていわれる。最終的には「ジェット・リー」まで言ってそこから先は出てこない。そんな事があると、日本人は世界ではまだまだだなって感じてしまう。みんなが知ってるのは自分の生活に密着してる、ソニーとトヨタと日産、ホンダぐらいの物で実際海外に出てみると日本について勘違いしてる外国人は悲しいぐらいに多かった。
 いずれにしても海外旅行をすると自分自身も他人からも一個人で在るよりも日本人、むしろ「日本」である事を強く感じさせることが多くなる。
 
 日本人である事を意識させられる分、逆に自分自身「個人」の特質も主張したくなる。だから、何かした時に「君は変わった日本人だ」と、外国人に言われると妙に嬉しく聞こえてウキウキする。
 日本で変人扱いされるとムカつくけど、海外ではそれが「自分らしさ」の褒め言葉のように聞こえる場合があったりして、人と違うことが自分が自分である事の証だと感じた。
 
 旅に出る前、思えば自分が日本人である事や自分が自分らしい事をそんなに意識して生活することがなかった。ましてや自分が「アジア人」だと思って生きた事なんて無かった。恥ずかしい話し、海外に出て初めて自分が「日本人」で「アジア人」である事が良くわかったし、自分らしさが必要だって事もよくわかった。



「ブランド」

人間にブランドなんて無い

外見がユニクロだからって

中身までユニクロじゃ無いんだ



「日本人はみんな似てる」
 メキシコや中・南米を旅行していると良く「チノ」って呼ばれる。「チノ」は、スペイン語で正しくは「中国人」とか「中国の・・・」を意味する言葉で、その他にもアジア人全般を指している。と、言うか「目が細い人」のことを「チノ」って言ってる。
 馬鹿にしてるみたいに聞こえるけど、パッチリ二重のラテンアメリカ人から見ればアジア人は全員、目が細いのだ。だから、目が細い奴はみんな「チノ!」。 
 これは僕にとって少し嬉しかった。幼い頃からそんな日本人の中でもとりわけ目が細く、それを馬鹿にされたりする事も在って「目が細い」って事にある種のコンプレックスみたいなものを持ってたけど「なんだ 結局、日本人はみんな目が細いんじゃん」と、言うことが良くわかった。
 実際、ラテンアメリカを旅してる時、現地の人の顔(パッチリ二重)を見慣れてからNHKのニュースを見ると、日本人の目はみんな細くって、ラテンアメリカ人の言うことは間違ってないのを実感した。
 目の細い人ばかり映る日本のニュースは久しぶりに見るニュースの内容よりも日本人の顔の特徴が笑えた。
 
 グアテマラを旅してた時、グアテマラ人に「日本のアニメは何でみんな目がでかいの?」って聞かれたことがある。確かに、日本のアニメの中の日本人は殆ど目がでかい、それに比べて海外のアニメで書かれる日本人や中国人などの目はみんな細いのだ。それまで、全く気付かなかった。
  なんて答えていいのかわからなかったけど しばらく考えて適当な答えが見つかった。
 「憧れ!」
 たぶん、日本人はみんな目が大きいのがうらやましいのだと思った。
 
 もし、日本のアニメの主人公の目が日本人の特徴どうりみんな細目だったらと思うと笑えて仕方ない。目の細い「セラームーン」は可愛くないだろう・・・。
 
 「日本人は、みんな目が細い」
 
 日本に居たら一生気付かないかもしれない衝撃的な事実だった。
 それにしても、ラテンアメリカを旅行中、町を歩いていても食事をしていても買い物に行っても、何所に行っても「チノ・チノ・チノ」と必要以上に声をかけられたり、こそこそ話されたりするのは何とかして欲しい。
 「僕は、日本人なのに・・・。」
 世界で日本人はもっと有名だと思ってたのに、何でアジア人のことをスペイン語で日本人のことを意味する「ハポネス」と、呼ばないのだろう?
 旅に出る前アジア人の中で一番有名なのは日本だと思っていたのに、残念なことに有名なのは日本ではなくて「メーカー」つまりソニーやホンダ、トヨタのそれだけで「日本」ではなかった。悲しい・・・。だから、もし呼ばれるとしたら「ハポネス」よりも、「ソニー」か「トヨタ」の方が可能性が高いかも知れない。



「ダイナマイト」
 誰でも二十歳を越えた人ならあんな国に行ってみたいとかこんなところを見てみたいと思ったことはあると思う。でも、それを思うのはその時、人生の中で言えばほんの一瞬だけでそれ以上深く考えないで「そのうち行けるかな?」なんて言って終わっちゃう。
 
 実際のところ、学生時代だったら、幾らでも時間があるから、思い切って旅行なんてことも出来るかもしれないけど、お金がなく・・・。就職なんかしてしまったら休みも取れないし海外旅行に行くのは会社を辞めるときだったりして・・・。歳を取れば取るほど海外旅行に行く事と天秤にかける対象が大きくなって、思い切って旅に出るとなると「これから俺の人生どうなるんだ!」みたいに、その対象はついに「人生」まで発展してしまう。ましてや結婚して子供が出来てしまったらその機会は金銭的にも時間的にもますますなくなってしまうはず・・・。
 なのに、海外に行く飛行機には必ず子供ずれの日本人ファミリーが何組か居るからあれは、凄いなと感心して、「俺ももうチョッと大企業に入っていたり、事業で一旗揚げれたりしたら優雅に家族旅行できるのかな〜」なんて他人のことをうらやましい目で眺めてしまうことも多々多々ある。
 
  ゴールデンウィークや年末年始の海外旅行ラッシュを見て、自分の生活している世界とテレビのニュースの中で見る人たちの生活している世界のあまりのギャップに自分の生活水準は異常に低くて駄目人間だから、休みを使って海外旅行に出るような優雅な生活が出来ないのかと真剣に悩んでしまう。
 年々増える海外旅行者と年々経っていく自分が海外に行ける機会のギャップが不思議でたまらなくなり、OLが勝手に休みを取って旅行に行くのは考えられても、なんであんなカンタンに家族で海外旅行に行けちゃったりするのだろう?と考え込んでしまう。
 それこそ、「年末ジャンボやサマージャンボの宝くじに当たったら会社なんか辞めて世界旅行でもしてやるのにな〜!」「辞表を出したときの部長の顔が見てみて〜な、」「俺が居なくなったらこの会社、困るだろ〜な」と現実的でない妄想に駆られながら「会社を辞めたら一番困るのは自分だな・・・。」と世界旅行や海外旅行を夢どころか考える余裕すら持たない人もたくさんいると思う。
 
 もちろん僕もその中の一人で毎日毎日同じ時間に同じ電車、同じ車両、喋りかけたこともないけど必ず見るいつもの人たちと顔を合わせて、たまに見かけなかったりすると「どうしたんだろう?」と勝手に心配したりして、会社に通い、365日殆ど変わらない生活をすることが日常で、僅かながらの優越感を得ようとゴルフをしてみたり、趣味を持ったりしても結局は仕事が終わった後のビールを飲んで上司の悪愚痴を言ってる時が一番幸せだったりする、一サラリーマンと変わりは無かったわけです・・・。
 
 あえて言うならばそんなありきたりの生活をすることに他の人よりも強く疑問を感じていたのかもしれないけど・・・。
 そんな疑問を解消することが出来ずに、フラストレーションを常にどこかに溜め込んで それは、いつ爆発してもおかしくなく何かきっかけがあればすぐに引火してしまいそうなダイナマイトだったんだと思う・・・。




「あしゅらまん」

「顔」がもっと 「頭」がもっと
「手」がもっと 「足」がもっと
「心」がもっといっぱいついてれば
色んな人生 歩けんのかな

一つじゃものたんない 二つでもものたんない
一つしか歩けない 一個だけしか選べない

本当はもっと歩きたい
本当はもっと選びたい



「心の導火線」
 たまたま会社の会議の打ち上げがきっかけで出会った彼女の夢が「40歳までに40カ国、歳の数だけ海外を旅行したい!」と、あまりにもくだらないと言うべきか、そのときの僕にとっては突拍子もない夢だった。でもそれは、チョット面白そうな夢のある響きにも聞こえた。
「ありきたりの日常から脱出できるチャンスなのかもしれない・・・」、
「電車でいつも見るあいつとは違う人生が歩めるのかも・・・」。
そこまで具体的には考えていなかったにしても、彼女の夢はチョッと叶えてみてもいいなと思えるくらい手に届きそうな気もしたし、もともと旅行好きで、海外に何度か行ったことのある僕にも共感できる、「がんばって節約して年に何回か激安ツアーで海外に行けばなんとかなるかな」と思えるような、現実的な夢だった。

 それから何回かの海外旅行を繰り返す内に、「思い切って世界旅行に行ってみたいね。」なんて話しが出てきて、「面白そうだね」と気のない返事を繰り返しつつ、「出来たらいいな〜」と心の中で何となく思ってるだけの日々が続いた。
 だから、世界旅行なんて夢のまた夢で、最初から乗り乗りで「じゃ〜明日から早速準備に取り掛かって二ヵ月後には世界旅行に出発しようぜ〜!」なんて若さ全開の台詞が吐けるほど子供じみた考えを持ってたわけでもなく、会社の事や家族の事、年齢のことや世間体など気になることは切が無いほどいっぱいあって、引き剥がしきれない「現実」と「夢」の狭間で持ち前の優柔不断ぶりを精一杯発揮して、彼女に会うときだけ「世界旅行行きたいね〜」と、ほんとに遠い夢の様に語って「とりあえず今度の休みにはバリに行こ〜か」とチョコチョコ旅をすることを考えてた。

 世界旅行なんて普通の人がすることじゃなくて、冒険家や探検家、写真家なんかの特別な職業の人がすることで、普通の人はしちゃいけないんだと勝手に決め付けて、お金のない一般人は、しがないパック旅行で僅かばかりの優越感を得ることが精一杯だと信じてた。
 だから、友達に「世界旅行に行きたい」なんて本気で話して「それ、いいね!自分がやりたいと思うことは、やったほうがいいよ・・・。」なんて力強く共感している答えが返ってきたとしても、その目は明らかに冷めていて、「お前のそお言う能天気なところ羨ましいな。」みたいな目で見られるに決まっていると思ってた。

 実際、お金は十分に持っていても「世界旅行に行くから会社を辞めさせてください。」なんて口が裂けても言えない。なんて思っている僕よりも遥かに責任感の強い人たちは多いんじゃないのな・・・。
 
 現実とはそんなもので、なかなか一度身に着けてしまった常識や習慣は引き剥がすのに時間がかかった。

  そんな感じで、最初は、そこまで世界旅行に対して本気でもなく、なんとなくインターネットで世界旅行のホームページを見ながら擬似世界旅行を楽しみ「俺だったらこんなことするのにな〜」と、勝手な想像をしているのが精一杯だった。

 それでも彼女は、長い、長い心の導火線に僅かばかりの火をつけた。彼女に出会わなかったら世界旅行に行くことなんて一生なかったと思う。
 一度ついた導火線の炎は加速度的に速度を上げてついには爆発することになった。
 アメリカ・メキシコ
「グランドキャニオンの夕日」
 僕は、太陽が地平線や山の向こう、ビルの谷間に沈む瞬間、つまり「夕日」の時が一日のうちで一番好きになった。
「好きになった」
そう、かつてはあまり好きじゃなかった。
 
 日本にいた時は夕日なんか見ることがなかった。仕事をしていたら毎日、気が付いたら日が暮れてたから、ゆっくり夕日を眺める余裕なんてなかったし、見たいとも思っていなかった。逆に日々仕事に追われて、日が暮れてからも仕事をしているのが嫌で「太陽なんか沈まなければいいのに」と思っていたほどだった。休みの日、たまに見る夕日も折角の休日が終わっていくのを感じるその瞬間が憂鬱にさえ感じていた。
 太陽が地平線に沈み始めてから、全て沈みきってしまうまでの僅か数分が一日のうちで一番、時間の流れる速さを感じるいやな時間だった。

 世界旅行に出てからは自然と夕日を見る機会が多くなって、アメリカのグランドキャニオン、キューバのカバーニャ要塞、メキシコのイスラムへーレス、ペルーのアマゾン、旅の途中で意識的に夕日を見にいく事もあり、嫌いだった夕日は旅が前に進んだ証みたいになり、いつの間にか一日の中でこの瞬間が一番好きになっていった。
 
 この旅で始めて夕日を見に行ったのはアメリカ、グランドキャニオンの「デザートビューポイント」。グランドキャニオンで夕日を見るにはこの場所が一番いいらしい。バスの出ていないこの場所まで行くのにわざわざレンタカーを借りた。
 
 ここから見る大渓谷はコロラド川がはるか谷底に辛うじて肉眼で確認できるというぐらい深く、地平線の遥か彼方まで崖が続き、恐ろしく感じるほど広い。昼間に見ても、その壮大さに思わず息を呑んでしまうほどで自然の作った見事な彫刻に感動というか圧倒させられる。更に、太陽が沈み始めると只でさえ赤いグランドキャニオンの大地は一層赤く染まり、目の前は、夕日に照らされた「赤」とその反面影になる「黒」の二色だけの世界になり、見事な「赤」と「黒」のコントラストの大渓谷は、今まで見たことのない地球だった。

 太陽の沈む瞬間、同じ方向、沈み行く太陽の方向を見て太陽が沈みきるまでの僅かな時間をここに集まった全ての人が共有しているのを感じた。周りの人を見ると同じ太陽を見てそれぞれの思いにふけっているようだった。

  僕は、目の前に広がる大渓谷を作った何千億年と言う時間と、太陽が沈みきってしまうまでのほんの僅かな時間と、自分の生きてきた32年と言う時間が頭の中でぐるぐると回り、「地球」と「宇宙」と「自分」全てが存在することの意味について深く考えていた。誰が作ったのか、誰のために作ったのか、何のために作ったのか、なぜ僕が生まれたのか、一生かかっても解決できないような疑問で頭の中がいっぱいになっていた。そして、何の答えも出せないままに太陽は静かに沈んでいった。

 ふと、我に返り自分の手のひらを眺める、自分の存在がまだ不思議に思えた。自分が広い宇宙の中の小さな、小さな太陽系の更に小さな地球で生きていることがありがたいことの様に思えて、生きていくこと「命」の大切さを感じた気がした。

  夕日を見る前、旅に出るにあたって悩んでいた事がいっぱい在って、家族の事も心配だったし、大好きなお婆ちゃんは80歳を越えてるから死に目に会えるのかどうかが不安だった。自分のこれからの事も心配だったし、一緒に旅をする彼女の事も不安だった。数え切れないほどの心配や不安な要素が僕の心の中で霧の様に悶々として折角の世界旅行を憂鬱にさせる時があった。

  グランドキャニオンの夕日を見た後、その霧はきれいになくなって、折角与えられた「命」を本気で楽しまなきゃ損だと感じた。旅を楽しみたい気持ちでいっぱいになった。

  これから二年間、地球を一周することになる。目の前に広がる馬鹿でかい渓谷を見て圧倒された自分はもう居ない。「何があっても頑張るぞ!」誓いの言葉のように心の中で響いた。

  しばらくすると東側からは紫色の夜が全てを覆い隠すように静かに襲ってきてフラッグスタッフの町に帰る途中に完全に闇になってしまった。
 アメリカだと言うのにここには街灯一つない。車のヘッドライトだけが頼りで、なれない左ハンドルの車をかなり緊張気味に走らせていた。途中、休憩のため路肩に車を止る。ライトを消してエンジンを切ると満天の星空が頭の上に広がっていた。
「夜がこんなに明るいなんて」
旅が始まってまだ間もないのに新しい発見ばかり。これから二年間の世界旅行が楽しみになった。




「嘘」

これまでの人生で
何人に「嘘」をつき
どれだけの人を騙してきただろう?
一番僕に騙された<
一番かわいそうな人を探すため
騙した回数と
その酷さをグラフにして
順位をつけた・・・
一番上に書かれたのは自分の名前だった。





「間違いだらけのメキシコ」

 旅に出る前、メキシコと言えばとんがり帽子にポンチョ、髭、スナック菓子のドン・タコスのキャラクターのようなイメージしかもっていなかった。
 日本にあるメキシコ料理レストランもみんなそんな感じで耳慣れないスペイン語の陽気な曲を流して、まさしくとんがり帽子の似合いそうな雰囲気を演出している。

 そのほかに僕が知ってるメキシコは、映画で見たブラッド・ピットが出てる「メキシカン」やアントニオ・バンデラスがでてる「レジェンド・オブ・メキシコ」で、だだっ広い砂漠を長い道が続き、乾燥した大地に砂埃が舞い、腰には拳銃を刺して、みんなポンチョを着て、とんがり帽子か、ウェスタハットをかぶってギターを持っている感じだった。
 明らかに人を騙しそうな怪しい風貌に(その当時はものすごく胡散臭く聞こえた)スペイン語が、メキシコ人は悪いやつに違いない、メキシコ人はみんな人を騙すことが当たり前だと思っている人種だ。と、かなり頭ごなしに決め付けて、「怖え〜、おっかね〜」とメキシコに対して完全に悪い印象しかもっていなかった。

だから、初めてアメリカとメキシコの国境を歩いて越えたときメキシコ人がジーパンを穿いてシャツを着て自分達と変わらないお洒落な格好をしている姿を見て驚いた。
 日本人とは多少流行が違う物の、彼らなりにしっかりとお洒落をしているというのが伺えて、失礼な話しだけど「えっ!マジで!」て思ってしまった。ヒゲも生えてなかった。
 むしろ、長期貧乏旅行中でカッコなんか気にしていられない自分達の方がはるかにダサく、胡散臭くさかったのだった・・・。自分より、カッコイイ格好をしているメキシコ人を見たときちょっとショックだった。


  メキシコ北部、チワワ鉄道へのアクセス地ロスモチスにバスでついた時、既にあたりは暗く、歩いて宿を探すには危険な時間帯だった。それなのに「お金を使うのがもったいない」という、それだけの理由で、重い荷物を持ったまま暗闇の危険な町へ繰り出していった。
  この頃、ガイドブックを全く持っていなかった僕達は、コンビニなどのお店や道端に居る人を尋ね歩きながらかなり地道に宿を探していた。なにも知らないはじめての街で宿を探すとなると日本でも大変だというのに日本語はもちろん英語も殆ど通じないメキシコでスペイン語が全くといっていいほど喋れない僕達がこの方法で宿を探すのはかなり無謀の様に思えるが、いつもその方法を使って宿を探していた。

 そのおかげでメキシコ人の面白い習性というか性格に気付いた。メキシコで道を尋ねると必ず答えてくれる。
 日本の様に道を尋ねられて「解らない」と言う人は殆ど居ない。
 ましてや、「外国人が話しかけてきた」と無視して通りすがる人はまずなく、片言のスペイン語しか話せないぼくたちにも真剣に対応してくれる。
 決まった場所であれば「わからない」と答える人も居るのだろうが、「ホテルは何所にある?」みたいに特定の場所を示さない場合、たとえ、本人が知らなかったとしても一生懸命に考えて必ず答えてくれる。その時、決まって言うのが、「3本目を左」。「右」の場合もあるけど・・・。ぼくたちは、この「3本目を左」にメキシコ入国当初、何度も騙された。

 そう、彼らは、たとえホテルの場所を知らなかったとしても必ず答えてくれるのだった。解らないなら、「解らない」と言って欲しかったが彼らは決まって答えてくれるのだった。たまにほんとうの場合があるから一概に騙してるとも言い切れないけど、たぶん、メキシコ人の性格上、「わからない」といえないだけなのだ。たぶん、プライドが許さないのだろう。悪気があるわけではなく、道を尋ねたときの彼らの一生懸命に考える姿を見る限りでは「何とか僕達の力になりたい」という気持ちからそういう風に答えているように見えた。
 そんなわけで道を尋ねる人はかなり選ばなきゃならないということに気付いて、もし「3本目を右」とか「左」とかいわれた場合にはしばらく歩いてからもう一度、他の人に尋ね直すようにしたのだった。

  その日も、何度かの「3本目を左」に引っかかりながらも諦めずに人を尋ね歩いていた。すると、車を止めて若いメキシコ人が、近づいてくる。
「何してるんだ?」とメキシコ人
「ホテルを探してる」と僕、
「じゃあ、俺の車に乗れ、俺がホテルまで連れて行ってやる。」
  気さくなメキシコ人は見知らぬ日本人のホテル探しに付き合ってくれて、お金を請求するわけでもなく、車の中でメールアドレスを交換して、家族の話を聞き、何もなくホテルまで案内された。「明日、駅まで送って欲しかったら電話しろ」彼は、そう言って帰ってしまった。

  翌日、チワワ鉄道の駅に行くのにガイドブックを持たない僕達はどう行ったらよいのかさっぱりわからず、近くを歩いていた高校生に声を掛けた。
 一人の高校生に声を掛けたつもりだったのに、周りに居た 10人ぐらいの高校生がいっせいに対応してくれてバス停まで連れて行ってくれた。バス停まで向かう途中みんなで写真を撮ったりして、大騒ぎ、何所の国でも高校生は元気がいい!学校で覚えたての英語で一生懸命話しをしてスペイン語の殆ど分からない僕達に凄く親切にしてくれた。
  翌朝、昨日の学生達に聞いたバス停に向かったがバスがなかなかこない。不安になって一緒にバスを待っているお兄さんに話しをすると僕達の乗るバスは朝の時間帯は違う所から出ているとの事だった。そして、そのお兄さんは、自分もバスを待っているのに僕達を歩いて 5分ほどのそのバス停まで案内してくれた。もちろんお金を請求されるわけでもなく。笑顔で快く案内してくれた。

 チワワ鉄道に乗って、17歳のメキシコ人の少年と友達になった。彼は少しだけ英語が話せて、お互い片言の英語でそれなりにコミュニケーションが取れた。電車に乗っている間、彼の家族を全員紹介された。弟に始まりメキシコの郷土料理「タマレス」を作るのが上手い親戚のオネーチャンまで、かわるがわるいろいろな人が僕に話しかけてくる。日本人の僕には理解しがたかった、知り合いになって間もない僕を家族の人みんなに紹介するなんて・・・。
 だいたい、友達を家族に紹介する様な事がない。
 彼は「もしまたロス・モチスに来ることがあったら連絡しろ。」そう言って僕と別れた。

 チワワ鉄道をクリールという街で下車して観光し、次の町チワワの町まで向かうとなったとき、ホテルに遊びに来ていた近所のおじさんが明日チワワの町まで向かうから僕達を車に乗せてくれるという。いくらかかるのかと聴くと「無料」でいいとの事、片道 6時間を「タダ」でいいとの事だった。
 何の遠慮もなく彼にチワワまで送ってもらうことにした。
 途中スペイン語を色々勉強させてもらったりして凄く充実した移動だった。

 途中の街で彼の仕事があるので、時間ほど待たされた。
 ガイドブックにも乗らないようなその町を大きなバックを持って徘徊していた。疲れ果てて、アイスクリーム屋さんに入って休んでいると優しそうなお婆ちゃんとその家族連れが話しかけてきた。
「何所から来たの?」
「写真を撮らせてくれる?」
 僕には、意味がわからなかった。
 どうやら始めてみる東洋人が珍しいらしい。
 僕は、快く写真を撮ることを引き受け、おばあちゃんと一緒に、娘と一緒に、孫と一緒に、結局、 3枚も写真を撮った。
 彼女は、「泊まる場所がないなら、私のうちに来なさい」そういって去っていった。

 更に、街を徘徊していると、今度は中学生ぐらいの制服を着た女の子の集団につかまった。
 マシンガンの様にスペイン語で話しかけてくるので、なにを言っているのかさっぱり解らないが、どうやら、「名前を書いて欲しい。」と、言っている。
 僕は、また、意味がわからなかった。
「僕の、名前でいいの?」
 僕の名前でいいらしかった。十
 数人の女の子に囲まれて差し出されたノートに僕の名前を書く。
 少女達は、見慣れない東洋の文字を見て嬉しそう。その姿を携帯電話のカメラで写す。僕も、みんなと一緒に写真を撮った。若い女の子の集団に囲まれる姿は、さながらアイドルにでもなった気分でうれしかった。
 どうしてそうなったのか覚えていないけど最終的には一緒に旅を続ける彼女とキスをしろといって、見知らぬメキシコの町の公園で女子中学生らしき集団は僕達を中心に「キッス」コールをしだした。仕方なく彼女のホホにキスをした。女子中学生たちはその瞬間を嬉しそうに、これまた携帯電話のカメラでパシパシと撮り、さながら結婚式のようだった。

  その騒ぎが終わったあとも何度となく話しかけられ、メキシコ人は想像を絶するほどに人が良く、ひとなつっこかった。
 
 その後、待ち合わせ場所に戻ると、待ち合わせ時間の10分も前だというのに既におじさんが待っていて
「早いね!」
と僕がいうとおじさんに言うと
「メキシコ人は 10分前行動だ!」といわれて驚いた。
こんなメキシコ人も居るのか。

 チワワの町では、マニュエルとエバいう路上でアクセサリーを売る僕より3つ年下の青年とその奥さんと友達になった。
 きっかけは彼が、路上で商売していた「ヘナ・タトゥー」に興味があって話しかけたことだった。
 彼らは、家に招待してくれた上に、メキシコで最も美味しいソースだといわれるカカオをつかった鶏肉料理「モレ」を手作りしてくれ、翌日はしっかり朝ごはんまで用意してくれた。
  泊まらせてもらった夜も近くの公園のフリーライブに遊びに行き、お洒落なカフェでお酒を飲み、友達を紹介され、観光客では味わえないメキシコをたっぷりと楽しませてもらった。
 会ったばかりの得体の知れない東洋人の僕達に信じられないほど親切にしてくれた。もちろん宿泊費なんか払っていない。飲み代も割りカンだとマニュエルは言い切ったが申し訳なかったのでチップだけは余分に僕達が払ったぐらいだった。
 翌日、バス停へ向かうまではマニュエルの友達のジソスがバス停まで30分を一緒に付き添ってくれた。

 メキシコシティーで地下鉄に乗っていたら突然日本語で話しかけられた。
 後ろを振り向くと若いメキシコ人青年が流暢な日本語で話しかけてくる。
「日本人ですか?」
僕が、
「そうだと。」と答えると、
「僕は、日本に行ってたことがある。今夜遊ばない。」との事だった。
 地下鉄の駅で言ったら僅か一駅、時間で言ったら二分ほどの会話だったと思う。その僅かな時間で待ち合わせの場所を決め、夕方に再び彼に会った。
 正直待ち合わせ場所に彼が来ることを期待していなかった。おそらくお互いにそう思っていたのだと思うけど、彼は、僕達よりも先に待ち合わせ場所について待っていた。
 彼は、まだ二十歳で、メキシコ・シティーでプロのボクサーをしている、数ヶ月前まで試合をするために日本に居たのだと言うことだった。
 その夜、彼と彼の友達と4人でメキシコの町まで呑みに行った。
 メキシコはビールが美味い!料理が美味い!久しぶりに繰り出す夜の街は凄く楽しかった。

 飲みだして3件目、時間も10時をまわっていたと思う、怪しいメキシコ人が僕たちに絡んできた。
 始めは簡単な言い合いに始まり、お互いにお酒も入って勢いが付いているせいか争いはあっという間に激しさを増し、つかみ合いになり店中大騒ぎ、殴りあいに発展するギリギリまでなって店員に抑えられ店を追い出された。
 僕も調子に乗って、片言の英語で「シャッタ・ファック・アップ!!」って叫んでいたら相手のメキシコ人が向かってきた、それを、ボクサーの彼は前に立て守ってくれた。
 二十歳の少年に守られることに抵抗があったけどおかげで僕には何の危害もなく無事その場はおさまった。
 海外での始めての喧嘩だった。
 ちょっと怖い思いをしたけど、いい思い出になった。その後も彼とはメキシコ・シティーに居る間何度となく飲みに行った。

 彼は、いつでも僕達におごろうとする・・・。
 いくら貧乏旅行で僕達にお金がないと言えども二十歳の少年におごられるわけには行かないのでいつも割りカンにしていた。
 

 その後もメキシコ人にはかなり親切にしてもらった。
 メキシコ人の間では「ミ・カサ・トゥ・カサ」の意識が根付いて、何所に行ってもこの言葉を良く耳にした。最初は何のことだかわからなかったけど。
 その意味は「自分の家はあなたの家」だということだった。彼らは、すなおにその精神を貫いているに過ぎなかった。

 日本に居るとき仕事関係で付き合う人間関係が多く、それほど真剣に人と付き合うことが少なくなってきていた、メキシコは僕に日本でなくしてしまった大切な物を思い出させてくれた。
  メキシコ人は優しかった。
 ポンチョも着てなかったしひげもはえてなかった。
 騙そうとする人なんか殆ど居なかった。
 確かに悪いやつも居るけど、全員がそうではなかった。僕
 が、見たメキシコは旅をする前に日本で想像していたメキシコとはかけ離れていることに驚いた。
  僕達が日本でメキシコだと思っている物は「テックス・メックス」といわれる、アメリカの文化とメキシコの文化が混ざった物で、わかりやすいところで言うとメキシコにチーズのたっぷりかかったナチョスは無く、これはアメリカ製だった。日本で見かけるタコスも殆どがアメリカ製。日本で見かけるようなタコスはメキシコ中探しても見当たらない。

 メキシコに来るまで気が付かなかったけど僕達はかなりの量の海外の情報をアメリカというフィルターを通して見ていることが多いのだと知った。
 海外の国から直接入ってくる情報よりもアメリカのニュースを通してやアメリカの雑誌を通して入ってくる情報が多くアメリカというブラックボックスを通った情報しか日本に入っていないことが良く解った。
 それは、僕たちはいつの間にかアメリカよりになっていると言うことだった。
 日本には間違いだらけの海外の情報が氾濫していることが良く解った。
 自分の住んでいる先進国日本がお粗末な国に思えた。
 キューバ


「鳥」

大空高く舞い上がる
何所までも遠く飛んでいく
国境なんて関係ない
海だって飛び越える

自由な羽を背に付けて
大きな羽を背に付けて
とにかく高く舞い上がる


鳥になりたい




「終わらないキューバ革命」

 メキシコを後にした僕達はカリブ海の孤島キューバに向かった。日本人の持っているキューバのイメージはどんなだろうか?正直、キューバが何所にあるのか知らない人も多いかもしれないし、キューバを知っていたとしてもいいイメージを持っている人は少ないと思う。
 唯一のいいイメージはライ・クーダが監督した映画「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」の中で出てくるような「サルサ」の世界だろうか・・・?
 おそらくキューバを最も有名にしているのは1962年の「キューバ危機」で当時のソビエト連邦とアメリカ合衆国は第三次世界大戦に発展するギリギリの所まで緊張感が高まり、ソビエトとアメリカという二大大国の狭間で小国キューバは振り回され利用され彼らのプライドはひどく傷付けられていたのだった。

 カリブ海の中に浮かぶ葉巻の形をした社会主義国家キューバに行くことが決まったとき、正直僕は怖かった。しかも、他の国には無い怖さを感じていて、それは、おそらく誰もが抱く共産主義いわゆる「赤」に対する、恐怖を僕も少なからず持っていた。日本人の最も身近な共産国家は、「北朝鮮」で、この国に対する恐怖と似た物をキューバに抱いていたことは否めない。僕は、キューバのことを何も知らなかった。

 キューバは世界で最も「差別」が無いといわれる国。キューバ革命でフィデル・カストロを含む「反乱軍」が目指したものは「平等」と「自由」で彼ら反乱軍の欲しがっていた物は僕ら、資本主義、民主主義の人たち欲しがっているものと何も変わりなかった。
 当時のソビエトやアメリカの二大大国に振り回されるのではなく彼ら大国と同じだけの権利を自分達も手にしたい、キューバ革命はアメリカに虐げられていたキューバの労働者層が正当に自分達の権利を主張しただけで、言論では、歯の立たない大国を前に彼らは武器を手にし、勇気をもって巨大なモンスターに刃向かったのだった。
 だから、彼らが目指しているのは世界征服でもなく、独裁政治でもなく、国民全員が大国アメリカと同様の権利を手に入れることだった。

 今のキューバの町を歩いていると、キューバ革命がなんだったのかと思えるくらい貧しく、汚く見えアメリカや日本などの先進国で見るような景色とは程遠く感じる。
 僕達が日本の東京、「新宿」「渋谷」「秋葉原」で見るように物が溢れていない。その十分の一、いやもっと・・・その百分の一の物も揃っていない。
 僕が、サンタクララで覗いた地元の市場で並べられていた物は僅か数種類の「芋」と「トウモロコシ」に「米」だけだった。 トリニダーやバラコアなどの田舎町で見た商店に並んでいる「商品」は「砂糖」と「パン」と「卵」、それに「炭酸ジュース」が少しだけだった。
 日本に住んでいる人には想像出来ないと思う。大げさに聞こえるかもしれないけどコンビニ並んでいる商品が砂糖と卵だけだと思ってもらっていいと思う。畑を耕すのには未だに水牛が使われていて機械製品は殆ど普及していない。それは、まさに第三世界というに相応しく、発展途上の貧しい国に見える。

 ところが、路上に浮浪者を見る事は無い。教育を受けられない子供は1人もいない。識字率は100パーセント。幼児死亡率も非常に低い。平均寿命も凄く長い。それは、先進国並みかそれ以上で、教育は無料、医療も無料、宗教も無い、人種も無い国民全員に平等な権利を与えるまさに世界一「差別」の無い国なのだった。
 キューバが貧しく見えるのはアメリカの経済制裁の影響でアメリカという大国はキューバと言う反乱分子と呼ぶにはあまりにも小さすぎるような小国に冷戦の終わった今日でも何の権利も与えず執拗なまでの制裁を与え続けているからだった。
  そして、キューバはそんな制裁に屈することなく、自分達の権利を主張し続けている。1953年7月26日サンチアゴ・デ・キューバのモンカダ兵営襲撃に始まったキューバ革命は、まだ終わっていない、「革命か死か・・・。」アメリカと言う大国と同じだけの権利を得られるまでキューバ革命は永遠に続くのだろう。



「鳥になった!」

空は自由に見えたのに

鳥は自由に見えたのに

やっぱり悩みは無くならない



「出発」
 メキシコのリゾート地カンクンの空港からキューバまで飛行機が出ている。(因みにアメリカからキューバにいける飛行機は無い)そこから、僕達をキューバに連れて行ってくれる飛行機は何とも歴史を感じる代物で、座席が前に倒れるという今まで見たことの無い装備の付いた、エンジンを吹かすと機内は白煙が充満するキューバ独特の空調の付いた何ともおんぼろな飛行機だった。
 その独特の装備や空調は僕達にキューバに対する恐怖を与えるための作戦なのだろうか?だとしたらその作戦は大成功でキューバが怖いというよりも飛行機が飛ぶのかどうかが不安だったし、キューバまでたどり着けるかどうかが心配だった。
  やっぱりと言うべきか、前者の不安は見事に適中し滑走路に入って飛ぶ直前だった飛行機は突然エンジンを停止して1時間も待たされることになってしまった。

 一時間後、再び機内は白煙で充満しガタガタと音を立て、おんぼろな飛行機は何とか空に舞い上がった。ふと、横を見ると中年のオジサンが座席に納まりきれず苦しそうにもがいている。普通のフライトでは考えられないけど、通常の飛行機よりもシートが狭いせいなのか、オジサンはシートを後ろに倒したまま離陸していた。オジサンはこうしないとシートに納まりきらない。シートを倒していても彼は殆ど身動きが取れない。 キューバに着くまでの1時間この格好が続くと思うと哀れで仕方なかった。

 結局、予定よりも一時間ほど遅れてキューバに着いた。が、実際には時差があるので2時間ほど予想していた時間とは違っていた。辺りはもう暗くなっていてホテルまでタクシーで向かう途中に見る初めてのキューバは街灯が少なく、殺風景でなんだか寂しい感じがした。
 何よりも、飛行機が落ちることが無く、無事にキューバにたどり着いたことが嬉しかった。


「洗礼」
 新市街のホテルについて直ぐ、ご飯を食べるために外へ出た。街灯の少ないキューバは、いくら安全だといわれる国でも少し怖い。ホテルの周りにも何件かレストランがあったけど、余り好みに合わない感じの店だったので少し遠くまで足を延ばしてみることにした。

 街角で黒人のキューバ人に話しかけられた。
「何か探してるのか?」
 僕は素直に「レストランを探してる」と答え、逆に「この近くに美味しいレストランはある?」と聞き返した。黒人は愛想よく、「それなら俺がいい所を知っているから案内してやる」と僕達を連れ立って歩き始めた。

 人通りの少ない寂れた路地を、そのキューバ人はもくもくと歩き続ける。タダでさえ少ない街灯がますます少なくなり、少し恐怖を感じ始めた頃、キューバ人は殺風景なビルの一階に在る玄関のドアをノックした。
 看板も無ければ呼び鈴も無い。明かりもついていないし、辺りには全く人通りも無かった。咄嗟に頭の中で警笛がなり「ヤバイ!」と思った。その瞬間、殺風景なドアが少しだけ開いた。中から顔を出した小太りの人相の悪いおじさんと、僕達を案内しているキューバ人はドア越しに何やらスペイン語で話している。その間僕達は、いつでも逃げられるように遠巻きに様子を伺っていた。一通り話が終わると、僕達の方を振り返り家の中に入れと手招きをした。少しずつ近づいて恐る恐る殺風景な玄関の扉の中を覗く・・・。

 そこはどうやらレストランで、5つほど並んだテーブルの上に、綺麗にナイフやフォークが並べられていた。先客も居て、なにやら美味しそうなキューバ料理に舌鼓を打っている最中だった。外から見たら、ここがレストランである事は全く認識できなかった。
  僕は「ふーっ」と深くため息を一つして、固まった肩の緊張を少しほぐしてからレストランの中に入った。 案内してくれたキューバ人も一緒に中に入る。
「グラシアス」
  僕は、スペイン語で「有難う」と声を掛けて、彼に帰ってもらおうとしたが、彼は僕達と同じテーブルの一つの椅子に腰を掛けて「モヒートをいっぱいおごってくれ。」と言った。
(モヒートとはキューバ特産のラム酒にソーダー水とライム、それに砂糖とミントがたっぷり入ったキューバオリジナルのカクテルでキューバに来たからにはこれを飲まないわけには行かない。)

 案内してもらったので仕方ないと思い、渋々「モヒート」を一杯だけおごることにした。
 僕達も「モヒート」を頼んで、ドリンクが来るまでの間にどの料理を食べるのかメニューに目を通していると、キューバ人が再び「俺も、何か頼んでいいか?」と聞いてきた。
 「いい訳ないだろう!」と思った。キューバは観光客には物価が高く、そのレストランも一つの料理が日本円で1000円以上する。
 貧乏旅行の僕達にはあまりにもきつ過ぎる。だから、「いやだ」ときっぱり断った。が、そのキューバ人もなかなか引き下がらない。
「ここまで案内したんだから飯ぐらいおごってくれ。いちばん安い物でもかまわない」というようなことを言って来る。しつこく迫ってくるキューバ人が腹立たしく思えた僕は、半分怒って「いやだ」と繰り返す。それでも彼は引き下がらない。
 最終的に「二人の料理を俺にも少しずつ分けてくれ。」まで言われて、あきれた僕は、仕方なくその交渉にのる事にした。
 食事中も僕達を案内してくれた彼は、「チェ・ゲバラ」のデザインの入った3人民ペソ紙幣を僕達に売りつけようと必死だった。幼い娘がごはんを食べれないで困っているという話しまでされた。
(キューバには二つの通貨がある。キューバ人の使う「人民ペソ」と観光客の使う「ペソ・コンバーティブレ」で、その価値には24倍もの差がある。世界で最も有名な革命家「チェ・ゲバラ」のデザインの入った3人民ペソは日本円で18円ぐらいの価値しかない。キューバを旅していればその内手に入るこの紙幣を観光客用の通貨の3ペソ、日本円で422円で売ろうとするのだから信じられない。)

  結局、予定をはるかにオーバーした金額でご飯を食べることになってしまった。2週間のキューバ旅行の最初の1日目としてはかなりの痛手で、キューバに着いた初日から右ストレートパンチを食らったような気分だった。
 
 ところが、これはキューバに旅行に来たら誰もが受ける「洗礼」のようなものだということを後で気付いた・・・。キューバ、特にハバナでは、お金目当てで近づいてくる親切な人が多いのだった。この後も、偽物の葉巻を売るおじさんや、たかり、謎の偽イギリス人女医(キューバ人)などいろんな人が近づいて来て、彼らは何やら企てようと僕達に必死で話しかけてくるのだった。こんなことでは人民ペソに描かれた「チェ・ゲバラ」の肖像も苦笑いしているに違いない。


「ヒッチハイク」
 翌日、僕達はサンタクララというハバナの東側にある小さな街に向かうことにしていた。この町は革命家「チェ・ゲバラ」所縁の地で、彼の博物館があり、彼の遺骨が埋葬してあるのだ。
 
 貧乏旅行の僕達は勿論キューバでもバスか徒歩での移動。この日も、バス停まで片道一時間半はかかると言われた道のりを、20キロもある大きなバックパックを担いでタクシーも使わずに歩いていた。

  初めて見るハバナの町は目新しい物ばかり。(実際には古臭い物ばかりなんだけど、あまりに年季が入りすぎて新鮮だった・・・。)日本では見た事も無い年代物のトヨタ車が走っている。巨大なトレーラーが180人乗りのバスになっていて、人がはみ出そうなくらいに乗り込んでいる。日本では車検が通らない、壊れそうな・・・壊れた車がいっぱい走っている。噂に聞いていたアメリカの50年代の車も辛うじて原形を保ちながら走っていた。企業広告の看板は全く無く、その代わりフィデル・カストロの言葉が至る所に貼ってあった。何もかもが日本の基準とはずれていて、刺激的だった。

 キョロキョロと町を見ながら歩いていたら、予定どうりにバス停に向かっているはずだったのに、なかなかたどり着かない。途中、何人もの人に道を尋ねながらバス停を目指したが一向にたどり着く気配も無く、歩き始めて1時間半経って団地のような住宅街に紛れ込んでしまった。

 20キロの荷物が肩に食い込むように重く伸し掛かり、僕たちは、これ以上歩けないと途方にくれて座り込んでしまった。しばらくうつむいたまま座り続け、ふと顔を上げると警察の車が道路の反対側に止まっているのに気がついた。最後の手段と駆け寄って道を尋ねる。
 ところが、愛想の全く無い警察で、道を尋ねている間も笑顔一つ見せない。むしろ片言のスペイン語が気に食わないのか、僕達を軽蔑している様な態度だった。「社会主義の警察とはこんな物なのか」と期待が外れたことにがっかりするというか、警官の愛想の悪さに僕はちょっとふくれ気味だった。すると無愛想な警察が「パトカーの中に乗れ」と言ってきた。

 まだ何も悪いことはしていない。勿論これからする予定もない。ただ、僕達の見た目が怪しいことは間違いなく、ここキューバでは警察に連行されても仕方ないような格好で在る事も間違いなかった。体中の毛穴から汗が流れだすのを感じた。日本から遠く離れた社会主義国家で連行されたら、日本にいつになったら帰れるのか不安になった。
 どうしたらよいか全く解らなくなって動揺する僕に警察は、またパトカーに乗るように催促してくる。「どうしよう・・・。」唯でさえ殆ど理解できないスペイン語なのに、動揺して余計にわからない。唯一理解できるのはパトカーに乗るように催促する無愛想な警察のジェスチャーだけ。完全に僕は動揺してしまった。

 それに気付いてか、警察の喋り方は少し優しくなった。ゆっくりと話されるスペイン語を良く聞いてみると「バス停まで送ってやる」といっている。
 「えっ?」「送ってくれんの?」片言のスペイン語とジェスチャーを使って何度も確認する・・・。警察は、無愛想なまま僕の言うことが理解できているのか?いないのか?軽くうなずいてからまた、パトカーの中に乗るように催促してくる。僕達は不安なまま大きな荷物と一緒にパトカーの後部座席に乗り込んだ。

 無愛想な警官の手でしっかりとドアは閉められて、車は静かに走り出した。出発してからも警察は何も話しかけてこない。二人の警官は黙ったまま目的地を目指している。20分ほどして目的のバス停に辿り着いた。結局、僕達二人はキューバのパトカーの後部座席に縮こまって、犯罪者が連行されるようにバス停まで送ってもらったのだった。

 キューバのパトカーのシートはプラスチック製でとても固く、座り心地が悪い。バス停に着くまで、本当にたどり着くのかなかなか信用できず少しも落ち着けなかった。

 帰り際、昨日の事もあったので警察にお金を要求されるかと思っていたが、相変わらず笑顔一つ見せない警察は、無愛想なまま何も言うことなく無く去っていった。
ホッとして力が抜ける。
「パトカーをヒッチハイクできるなんて・・・。」
キューバがそんなに悪い国では無いように思えた。
プラスチック製の冷たいシートの感覚がしばらく背中に残っていた。


「サンタクララ」
 サンタクララに着いたのは夜だった。バス停から外を覗くと、街灯がほとんど無く、日本の夜とは比べ物にならないくらいに暗い。暗闇の中から「パカラッ、パカラッ」と馬の走るような音が聞こえて来るけど、暗すぎてそれが何なのかも確認できない。どんな街並みなのかも良く解らないほど暗い。バス停の出口まで向かって外に出ようと思ったけど、玄関口には人相の悪そうなキューバ人がたむろっていて着いたばかりの「観光客専用バス」に乗ってきた「鴨」をどう料理しようかと企んでいるように見えて、外に出る事も出来なかった。

 余談だけど、キューバでは大体の物に「キューバ人用」と「観光客専用」の二つが用意されていて、長距離バスにも観光客専用のバスがしっかりと用意され、外国人はVIP待遇と言うか、しっかりと隔離されるようになっているのだった。

 仕方なく、バス停の中にあるインフォメーションに助けを求め、どこかいい宿がないかと尋ねてみることにした。
 職員のおねーちゃんによると、外に居るタクシーの運転手に聞けばすぐにいい宿が見つかるとのことだった。「なるほど・・・。」外にたむろしている人相の悪いキューバ人はタクシーの運転手で、彼らは金払いのいい外国人客を掴むためにここに集まっているのだということが解った。

(社会主義国家のキューバで一般のタクシーが在ると言うのもちょっと不思議な気もするけどキューバではある程度の自由経済が認められている。)

 外から怖い目で睨まれていると感じていたのは、どうやら睨まれていたのではなく、バス停の中に入ることの許されないタクシーの運転手達が「俺のタクシーに乗れ」と熱いラブコールを僕達に送りつけているのだった。
 ちょっとだけ事情の読めてきた僕達は早速、玄関の前でたむろするキューバ人たちに宿が何所にあるのか話しかけようと思った。が、そんな必要もなく、近づいただけで彼らの方が昔テレビで見たアフリカのメスライオンが集団で獲物を捕らえる時と同じ様に、黒人のキューバ人は小さな、小さなアジア人の僕達に襲い掛かるように話しかけてくるのだった。

 あまりの勢いの凄さに圧倒されてしまった。一気に何人かにスペイン語で話しかけられても何を話されているのかさっぱりわからないし、僕達よりもズウタイのでかいキューバ人は正直言って怖い。結局、彼らを振り払い、逃げるようにバス停の中に舞い戻ってきてしまった。状況は更に悪くなった気がした。

 仕方なく、バス停の中で人の良さそうな別の職員のおじさんに話しかけることにした。今度は、スペイン語が話せないことをあらかじめ伝えてゆっくりとジェスチャーも交えて話しをする。何とかおじさんは理解してくれたらしく、「近くの知り合いの宿を紹介するからちょっと待って」といっている様だった。
  何で「様だった・・・。」なのかというと、キューバでは英語が全く通じず、僕達も全くと言っていいほどスペイン語が話せなかったのでコミュニケーションの手段が殆どなく、彼の僅かな表情とジェスチャー、それにほんの少しだけ解るスペイン語で何とかコミュニケーションを取るしかなかった。相手の顔を真剣に見つめながら、眉間のしわから眉毛一本の動きまでも見分けながら何を言いたいのか感じ取らなくてはならなかったから「伝える側」も「聞く側」も殆どのことが半信半疑で、正確に何を言っているか理解するまでに至らないのだった。だから、「安いホテルは何所ですか?」と聞くだけでも数十分もの時間を費やさなければならなく、かなりの重労働だった。

 おじさんは、仕事も放り出して外に走って出て行ってしまった。バス停のレストランで僕達は待たされた。なかなか彼は帰ってこなかったが、話が通じていることを信じて待つことしか僕達には出来なかった。 20分ほど待って彼が帰ってきたけど、悲しそうな顔をしてうつむき加減で帰ってくる姿から宿が見つからなかったことを感じ取れた。おじさんも困っているようだったが僕達も困っていた。野獣のようなタクシーの運転手の所にはもう行きたくなかったし、ホテルまでは資金節約のためにも出来れば歩いて向かいたかった。

  おじさんは困り果てた僕達を見かねて、仕事が終わってからバス停から少し離れたセントロにある知り合いの宿を紹介してくれると言ってくれたようだった。彼の仕事が終わるのを待って、バス停の外の真っ暗な夜の街へやっと僕達は繰り出していった。
  地元のキューバ人が一緒なら暗い街も安心。オジサンは中国製の電気自転車に乗って僕達をホテルまで案内してくれた。街に車の通りはほとんど無い。バス停に着いたときに聞こえた馬が走るような音の正体はやはり「馬車」で、暗闇にランプを焚いた馬車が地元の人を乗せて僕の横を何度か通り過ぎていった。日本人の僕等からは、同じ2007年の地球に存在する国だとは到底思えない景色が衝撃的だった。馬車と電気自転車のアンバランスさも異様に思えた。「なんなんだこの国は?」僕達のキューバの印象はこんな感じだった。

 宿についてから、オジサンは宿のおばちゃんに値段交渉をしてくれた。今日バス停で起こった、変な東洋人が突然話しかけてきて宿を紹介してくれといってきた事。しかも、その東洋人はお金が無いらしくタクシーに乗りたがらない事。ここまで30分近く重い荷物を担いで歩いてきた事。・・等を身振り手振りを交えて一生懸命はなしてくれているのが、僕達にもよくわかった。
 熱心なオジサンの話しに心を打たれてか、宿のおばちゃんは快く僕達を泊めてくれた。通常25cucする宿を15cucにディスカウントもしてくれた。
 キューバの宿は「カサパティクラル」という、民家の部屋を間借りするのが一般的。勿論ホテルもあるけど値段が高く僕等のような貧乏旅行者には手が出ない。カサパティクラルの方が地元の生活に触れられる気がして楽しかった。


キューバの御飯
 旅をする上でその国の御飯が美味しいのか美味しくないのかはその国が楽しめるのか楽しめないのかに大きく関わってくる。飯が美味しければたいていの国は楽しめちゃう。

  キューバの場合は「高くて不味い!」キューバを旅行した殆どの旅行者が口々にそう伝えていて、御飯に関して言えば旅行者から最悪の評価を下されている。だから僕達のような貧乏旅行者は、よほどの興味がないと楽しめない国だと言えるのだった。
 メキシコを旅行中に、実際にキューバに行った旅行者から「飯は不味いし、物価は高い、たかりばかりで最悪な国だ」と言う話しを何度も聞いてたから、ある程度の覚悟は出来ているつもりだったけど、前にも書いた通り初日の夕食は案の定たかられてしまった訳で・・・。味はそれ程不味くはなかったけど、値段の割にはたいした物が出てこないので高いと感じたのは事実だった。

 キューバで最も有名な料理は「アロッス・コン・グリース」と呼ばれる見た目には日本の赤飯に似た料理。だけど赤飯だと思って食べると味は全く違う。これを好きになれないとキューバ旅行は憂鬱になってしまう。幸いにも僕の口にはとっても合って良かった。それ以外には特に気の利いた料理も無いと言うか、他の国に比べて極端に物の少ないキューバには、気の利いた食材も揃っていないので、食べる物に期待するほうが間違っているのだと旅をしている間に少しずつ気づいていった。

 バス移動中は昼食休憩があって、外人観光客向けの気の利いたレストランに案内されるのでそれほど飯がまずい事も無かった。と言うか、値段が高すぎたので僕達はビスケットを食べてお腹を膨らましているだけだったので味がどうなのかも良く解らなかったけど、ほかの外人さんたちはそれなりに美味しそうに食べているように見えた。

 二回目のまともな食事は、サンタクララに着いた夜だった。街を歩いていて見つけた観光客向けではなく地元の人が入る、外にテラスがあって見た目にはチョット小奇麗な外観のレストラン。
 メニューはスパゲティーとピザ、それにサンドイッチしかなかった。値段はそれ程高くなく一品当りだいたい2cucだから300円ぐらいで食べることが出来るのだった。スパゲティーとピザを僕達は頼んで、しばらくしてスパゲティーが先に運ばれてきた。見た目にも明らかに不味そうで、日本のデパートの地下にある食堂よりも遥かに不味そうな見た目。茹でたスパゲティーの上にレトルトのトマトソースとチーズが無造作にかけられているだけ。肉片らしい物も見当たらない。タダのトマトスパゲティーだった。
「値段相応だな。」と思いながらフォークを使ってそれを口に運んだ・・・。
「不味い!」
 お金を払って食べるご飯でこれほど不味い物を食べたのは今までの人生の中で経験したことが無いと言うほど不味かった。メニューはスパゲティーで、不味い可能性は限りなく低いだろうと思っていたのに・・・。
  歯ごたえを全く感じない茹ですぎのスパゲティーはなぜか冷めていて、お皿の中に茹で汁が入ってビチャ・ビチャに麺が浸かっている。トマトソースは味が殆ど感じられないくらい薄味で。一度溶けたチーズはだらしなく散らばったまま再び固まっているのだった。それでも、お腹がすいていたのでその不味〜いスパゲティーを全部食べてしまった。

 キューバ二番目の都市サンチアゴ・デ・クーバで入った食堂も想像を絶していた。人民ペソの使えるその食堂は観光客が来ることは無く、地元キューバ人だけが利用する店だった。
 メニューの種類は白御飯、白御飯の上に鶏肉を乗せた物、ハンバーガー、ベーコンのみ。なぜか一番上書いてあるベーコンは、値段も25人民ペソ(150円)と他のメニューよりも10倍近い値段表示になっていたのだった。

 どんな物がでて来るのかと興味本意で「ベーコン」を頼んでみた。しばらくして運ばれてきた物はこんがりと焼かれて油のたっぷり乗ったベーコンの「塊」だった。メニューに書いてある通りだった。日本で見るような薄切りのベーコンではなく、何の飾りも無い超厚切りベーコンの塊がグチャッと白いお皿の上に乗せられていた。見ただけで食欲がなくなるような油の艶やかさ。一口、口に運んでみると、ねっとりとまとわり着くような油に、今まで味わったことの無い臭い匂いが口の中に充満する。僕は、殆ど食事を残すことが無いけど、このベーコンは食べられなかった。不味いスパゲティーだって完食したのに・・・。

  幸いこのレストランには、お客が食べ残した鳥の骨などをビニール袋に詰めて集めているお婆ちゃんがいて、この人もこのレストランのお客なんだけど、自分の注文した料理が来るまでの間に一つ一つのテーブルを回って、お客に残飯を分けてくれるように話しかけている。自分が食べるわけではなく、飼っている犬のために持ち帰るようだった。僕達のテーブルにもそのお婆ちゃんは来て、僕等の残した鳥の骨などを袋につめて行った。ほとんど手が付けられず残された「ベーコン」も持って行ってくれと頼んだら、別の袋に詰めて嬉しそうにもって帰ってくれた。
 別の日に、またそのレストランに行った。夜が遅すぎて他に開いている手ごろなレストランがなかったのと、何となくそのレストランのほかのメニューに興味があったからだった。
 今回は あまり失敗したくなかったので、無難にハンバーガーを頼んだ。ところが出て来たハンバーガーを見てあいた口がふさがらない思いをする羽目になった。

 そのハンバーガーには、パンが付いていなかった・・・。中身の肉のパテだけが白いお皿に一枚だけ乗っていて、日本のハンバーグの様にソースが掛かっているわけでもなく、味付けもされていないハンバーガーのパテだけがお皿に寂しく乗せられているだけだった。「こんな料理は見たことも無い!ハンバーガはパンに挟んであるんじゃないの?」キューバのハンバーガーにはパンが付かない。こんな国があったんだ。想像を絶するような事実だった。

 キューバの首都ハバナの旧市街にある、これまた観光客向けでない寂れたレストランに入ったとき、その店は最初に入った瞬間からあまり印象がよくなく、3組ぐらいいた先客は年齢層が高くあまり綺麗な格好でなかったし、店の中も内装は一切無くて見た目にも非常に汚かったから、一回は引き返してその店に入るのを辞めるほどだった。

 気を取り直して店の中に入り、パンとコーヒー、それにチキンスープを頼んだ。料理が来るまでの間に、周りの客がみんな話しかけてきて、この店に来るような外国人は殆どいなくて珍しいようだった。どのお客も「俺の分も払ってくれと。」口々にいってくる。かなりしつこく言われるので料理が運ばれてくる前にレストランの雰囲気が怖くなった。

  しばらくして運ばれてきた料理は、プラスチックのお盆に載せられて何の飾りも無い丸いパンと、酷く甘いエスプレッソコーヒー、それにコップに入ったチキンスープだった。実にキューバらしい飾りっけの無さだ。
 パンとコーヒーは想像するにも簡単な味だったけど、チキンスープにはなぜか皮しか入っていなく、表面にたっぷりとギラギラする油の浮いた感じは、最初の一口を口に運ぶ事を躊躇するほどの見た目。がんばって一口食べてみると、「まー何とか食べれない事は無いな。」ぐらいの、決して美味しいとはいえるような代物ではなかった。
 残すのも嫌なので最後までそれを食べようと思った。チキンスープを途中まで食べたときに中から1センチほどの「黒い塊」が出て来た。スプーンに取ってよく見てみると、まぎれも無くそれは「ハエ」だった。しっかりと形が残っていた。頭の中でその存在を必死に否定しようとしたが、目の前の事実が曲げられるほどの「想像力」や「超能力」があるはずも無く。目の前の酷い現実に打ちひしがれるだけだった。

 わずか二週間のキューバ滞在の間に食で悩まされたことはこれ以外にも多々、多々在った。それでもその酷さが尋常ではないので逆に楽しめてしまうほどだったのでよかった。

 キューバの食について酷い事ばかりを書いてきたけど、本当は、キューバの意外な料理の美味しさに脅かされる事の方が遥かに多かった。

 実は、サンタクララのレストランも食事が終わってから良く見ると地元のお客さんは何の料理も頼んでなく、ビールだけしか飲んでいなかった。それ以外のレストランでも食事を取るよりもビールを飲むだけの人の方が多かった。
 ハバナのレストランだって、よく見るとハバナでもかなり特殊な人たちしか集まっていない事が簡単に見て取れたのだった。
 良く町のレストランを見てみると料理が美味しい所には地元の人たちが人だかりを作って並んでいるのだった。

 ハバナの旧市街にある中華街の近くにも人だかりが常に出来ている場所があって、何事かと思って列に並ぶと、ビルの1階の小さな窓から料理が出てきて、みんなその料理を道端で食べているのだった。その料理はガルバンゾー(ヒヨコマメ)のトマト煮込みで、なかなか美味い。ハバナの旧市街に滞在している間に何回かお世話になってしまった。
  キューバの人たちは決して味音痴ではないのだ。観光客が地元の人が好きな美味しいレストランを知らない場合が多いだけなのだと気付いた。

  キューバのカサパティクラル(民宿)では、頼めば家庭料理を作ってもらえる。キューバを旅行中に泊まった全部のカサパティクラルで家庭料理をいただいたが、何所の家の料理も非常に美味しい。レストランでは味わえないような家庭の味が楽しめるので、キューバに行くならレストランの食事よりもカサパティクラルの家庭料理を勧めたい。
 特にキューバでお奨めなのは、何といってもエスプレッソ・コーヒー。夕食の後に出てくるコーヒーの美味しさには何度も驚かされてしまった。ホット・ポットに入れてたっぷり出てきて、お決まりの小さなカップに何杯でもおかわりが出来るのだけれど、日本ではあれほど苦くて飲めないと思っていたエスプレッソが程よい苦味で美味しい!何杯でも飲めちゃう。キューバ人はこれにたっぷりの砂糖を入れて飲むのが普通みたいで、砂糖を入れないで飲む僕等の姿を見て驚いていたけど、砂糖なんか入れたらもったいないと思うほど美味しい!

 それと、キューバの一番東側の都市「バラコア」にある「カーサ・デラ・チョコラテ」と言うアイスクリーム屋さん。何とメニューはチョコレート・アイスだけ!社会主義国キューバにあってこの店は常に超満員!並ばないと店に入れない日が多かった。お店のお姉さんが注文を取りに来たらチョコレートアイスを何個にするかを頼むだけなんだけど、地元の人は最低3個は頼んでた。僕達はチョット控えめに2個を頼んだけれど、これが美味い!思わずもう一個食べてしまいたくなるような美味しさなのだ。
  それもそのはず、バラコアはカカオの産地!地元のカカオをふんだんに使ったチョコラテアイスは、口どけまろやか、まさにほっぺたが落ちてしまいそうなおいしさに成るのだった。

 最後にビール。キューバのビールは殆どの種類が美味しくない。「不味い!」と唸るほどではないものの、決して「ぷっは〜!美味い!」といえるようなものではない物が多かった。
 しかし、サンティアゴ・デ・クーバで作られている「アトゥウェイ」と言うビールだけは美味かった!少しブラウンがかった色のそのビールは、他のキューバのビールに比べて味わい深い。地元の人は他のビール(ブカネロ)が好きみたいだけど、僕達は断然!「アトゥウェイ」を奨めたい!因みにこのビールは、観光客の行くような店では置いて無くって、しかもハバナには無くてキューバの東限定商品。人民ペソが使える地元の人が通うお店に行かなくちゃいけないから、地元向けの寂れたお店の感じが、また実にキューバらしくて旅の雰囲気を一気に盛り上げてくれる事間違いなしなのだ!
 中米


「つぎはぎ」

破れたジーンズにつぎはぎをするように
人生の破れた穴に蓋をする。

俺の人生穴だらけ
見た目も悪い穴だらけ

だから破れた穴に蓋をする
今日も破れた穴に蓋をする



「チキンバス」  
 チキンバスって一体なんだ?

 グアテマラ・シティーの長距離バスのバス停に着いたのは朝の5時30分だった。夜もまだ明けない朝のバス停で、ここからアンティグアの町までどうやって行けばいいのかバス停のおじさんに尋ねると、このバス停からタクシーで15分程のところにアンティグア行きのチキンバスのバス停があるという。

「チキンバス?」
「なんじゃそりゃ?」
 
 ふざけた名前のバスがあるもんだ。僕の頭の中でチキンレースとチキンバスがごっちゃになって、とてつもなく危険な乗り物のような気がしてならなかった。

 バス停に着いて初めてみるチキンバスは、名前以上にふざけたバスで、払い下げのアメリカのスクールバスを飛びっきり派手に着色して、内装も日本のヤンキー車の様にチンチラ張りでギンギンに飾りつけされ、キリストの絵が飾ってある。まさにトラック野郎のバス版(グアテマラ版)!バスの中で演歌は流れない物の、メキシコから続くマリアッチの陽気な音楽がガンガンにかかっている。とても公共の乗り物だとは思えない想像を絶する乗り物だった。

 それが走り出したら更に凄い。ガンガン飛ばす!とにかく飛ばす!なぜそんなに飛ばすのか最初は理由がわからなかった。しばらく観察すると、どうやら対抗するほかのチキンバスよりも早くバス停に着かないと乗客を乗せ損ねてしまうからだった。だから、同じ路線を対抗するチキンバスを見つけると、まさにチキンレースのような様相になる。対向車線まではみ出して、クラクションを鳴らしまくりながら黒煙を巻き上げ、追い越し、追い越されのレースが繰り広げられるのだった。

  乗り始めた頃、5人ぐらいしか居なかった乗客は、レースの甲斐あって次第に人数が増え、座席は完全に埋ってしまった。それでもまだ乗客は乗ってくる。ついに通路まで一杯になって、もうこれ以上乗れないと普通の日本人なら判断する所を、グアテマラの基準は完全に超えている。乗る、乗る、ギュウギュウ詰めで足の踏み場も無いほど・・・。山手線や千代田線の通勤ラッシュを経験していた僕でさえも「まだ乗るの!?」と悲鳴をあげてしまうほどの人が詰め込まれる。そんな状態でも、レースは繰り広げられる訳で、グアテマラ人の仕事熱心さは日本以上じゃないのかと、この時ばかりは思ってしまうのだった。それでも、このバスは非常に便利でグアテマラを旅行するには欠かせない移動手段。このバスさえ乗りこなせればグアテマラ中いけないところはほとんど無い。
 世界各国その国を代表する乗物は色々と在るだろうけれど、グアテマラを代表する乗物は「チキンバス」。もっとも世界から注目されてもいい乗物だと思う。


「行方不明者・・・。」  
 海外旅行をしていて、国境を越えるとき移民局で「探し人」や「指名手配」の張り紙を見つける。探し人の張り紙を見ると「何で居なくなっちゃったんだろう?」「薬をやってたんじゃないか?」「ゲリラにつかまったのか?」と、いろいろな妄想をするけど理由は分からない。僕にとっては、「この国は危険だ。気をつけなくては。」と国境を越えて嬉しい反面、新しい未知の世界に飛び込む怖さを感じるだけだった。

 実際、他の旅行者から、海外旅行をして帰ってこなくなってしまった人の話しや、犯罪に巻き込まれてしまった話しを聞く機会も少なくない。(幸いにも僕の知り合いで居なくなった人は居ないけど・・・)日本のニュースにならない、原因不明の海外での行方不明者や殺人事件は5万とあるらしい。

 グアテマラのケツアルテナンゴに在る日本人宿に泊まったときにも食堂のところに「探し人」の張り紙がしてあった。日本人のものは初めて見たので、かなりドキッとして、日本人もこんなことになるんだ・・・と、違う意味で感心してしまったのを覚えている。
 
 宿の主人によると今から二年ほど前に、張り紙用の紙を手にした親が「息子を探してください」と、宿に訪れたのだという。その張り紙には、年齢・性別・誕生日・携行品・バックの色・最後に連絡の取れた日にち・体の特徴・吸っているタバコの種類まで書いてあって、両親の真剣さが伺えた。

 どうやらかなりまめな子で、一週間に一回ぐらいのペースで親にメールを送っていたようだ。写真の顔を見ても、犯罪に巻き込まれそうな感じもしないし、ましてや薬に手を出しそうな感じも全くしない。「一体なにがあったんだろう・・・?」とグアテマラにチョット恐怖を感じた。
  何処かに居るのかもしれないけど、何かに巻き込まれてしまった可能性が高いと思う。グアテマラは一日に一人以上の殺人事件が毎日起こる。毎日、グアテマラのどこかで誰かが殺されている。日本で思っていた可愛い雑貨のイメージとはかなり違っていて実際のグアテマラ、特に首都のグアテマラ・シティーは、中米一危険だといわれるような場所だった。

  ところが海外にはそういった理由で居なくなった人ばかりではないらしい。
 これも宿の主人の話だが、以前にも同じように探し人を頼まれた事が在り、幸いにも本人を発見できた。慌てて、頼まれた両親に連絡を取り迎えに来てもらおうとしたが、当の本人から激怒された。「何で連絡したんですか!」と・・・。宿の主人は何のことやら分からず困ってしまった。彼は自分の意思で失踪していた。誰にも見つかりたくなかったのだ。

 海外で行方不明になっている人の半分は何らかの理由で日本に帰りたくない人ではないかと旅行者は推測する。
  そういえば、日本で住んでいたときに「海外に逃げちゃいたいな・・・」とか言う人、結構居た気がする。実際に逃げちゃった人もそりゃ居るわけだ。

 最近テレビで失踪者を探す番組が流行ってたりして、「〜から連絡がありました。」とか、「もしこのテレビを見ていたら○○サン連絡ください。」なんてアナウンサーが真剣に訴えていたりするけど、失踪した当人が日本に居るかどうか定かではない。今時は海外にまで失踪することだってそんなに難しいことではないのだ。


「マヤの家でホームステイ」
 グアテマラに在る世界一景色が綺麗と言われるアティトラン湖畔の「サンペドロ・ラグーナ」という小さな、小さなインディヘナの集落で一ヶ月スペイン語学校に通う事にした。

 余談だけど、日本人は「世界一・・・」とか「日本一・・・」「唯一・・・」「・・・だけ」とかに弱いらしい。世界でここだけとか言う場所には日本人がよく集まる。
 ボリビアに在る世界一広い塩湖「ウユニ」も日本人は大好き!更に塩湖の中に在る塩で出来た唯一のホテルは宿泊客の半分が日本人か韓国人だというほどの日本人の人気スポット。「南極ツアー」もチリの「イースター島」もエクアドルの「ガラパゴス諸島」も日本人は大好き!   ペルーの「マチュピチュ」も忘れてはいけない。地球の何所であっても日本人は「・・・だけ」とか聞くと何所でも行きたくなっちゃうようだ。世の中に一つしかない物を見たり聞いたり、時には食べたりして優越感を覚える事はもはや日本人の「常套句」だといってよい。
  そんな訳で、僕達も「・・・だけ」とか「一番」に弱いほかの日本人となんら変わりは無い訳で何となくそんな話しを聞くと何所でも行きたくなっちゃう。

 グアテマラは中米でも最もインディヘナが多い国。アティトラン湖周辺はそのなかでも一際インディヘナが多い。普段の生活ではスペイン語よりもマヤ語を話して生活していて、学校の授業以外の家庭生活や友人との会話はすべてマヤ語で行われているから、スペイン語の勉強にはならないかもしれないけど、マヤの生活に触れられるホームステイは普段出来ない体験ができるいい機会だと思った。

 マヤの言葉には「文字」が無い。言葉を書いて伝えていく方法が全く無いから、生活の中で受け継がれていく言葉。日本だとそういう古臭い文化は若者には評判が悪くて、気付いたら老人しか昔の言葉を話さないなんて事がよくあるけれど。ここでは、みんながマヤの言葉を喋ってるのが新鮮に見えた。

 マヤの女性は子供から大人まで民族衣装に身を纏っている。男性も年配の方がたまに民族衣装を着ている。グアテマラは男性が民族衣装を着る部族も多く残っているけど、サンペドロのマヤは残念だけど男性の殆んどは洋服だった。サンペドロのマヤの男性に、何で民族衣装を着ないのか聞いてみたけど、流行遅れだと言う答えが帰ってくることが多かった。でも、僕が思うに男性は流行に敏感だと言うよりは、この辺りはコーヒーやトウモロコシなどの栽培が盛んで、常に汚れる男性の仕事には、民族衣装よりも洋服の方が機能的だったから長い時間をかけて洋服を着るように変化していったんだろう。

 サンペドロには生活に必要な電気やガスも揃っているし、トイレは水洗で、お風呂は無いけどシャワーは日本では余りなじみが無い電気シャワー(シャワーヘッドに電気コイルが付いている)が付いているから辛うじて温かいお湯が出てくる。

  それでも、未だに食事を作るのには薪が使われているし、洗濯はアティトラン湖でする。年配の方は身体もアティトラン湖で洗うような日本の現代では在り得ない様な生活スタイルが普通だった。
  最初は不便で仕方ないような気がしていたけど、実際にマヤの生活に触れてみるとマヤの家庭にある薪のキッチンはグアテマラ料理を作るには使いやすく機能的で便利。むしろ、日本にあるようなガスコンロはここでは使いにくく感じてしまう。お風呂もシャワーを浴びるよりも湖で身体を洗うほうが気持ちよいのだと思った。日本では不便だと感じる事も、ゆっくりとした生活の中ではそれ程不便だとは感じないのだった。

 日本での生活は毎日があわただしく、全ての事がより機能的で簡単でなくてはならないし、面倒な事はボタン一つで済まないと他の事に手が回らない。効率が最も重要な要素で、生活の質の向上は、電化製品抜きでは考えられないけど、一ヶ月のマヤのホームステイで電化製品のほとんど無い生活のほうが日本の生活よりも豊かだと感じる事が多かった。単純に無いものねだりなのかも知れないけど・・・。

  普段の生活で一番気に成るのはやっぱり「食文化」。中米の主食はトウモロコシでメキシコから続くトルティージャが一番南の国「パナマ」まで続く。それぞれの国で形や調理方法が少しづつ変化していくのを経験するのも中米縦断の醍醐味。
  トルティージャの形はメキシコでは、1ミリか2ミリの薄さで大きさは地方によって少し違うけど直径15センチくらいのが多い。これがお隣グアテマラでは5ミリ以上の分厚い生地に直径10センチほど固いパンのような見た目になる。
 材料はトウモロコシで小麦粉を混ぜるメキシコとは違って、100%トウモロコシで出来ている。メキシコでは店で売られていたトルティージャは、家庭で作ることが一般的に成る。
  作り方はいたって簡単で、畑で収穫したトウモロコシ(日本のトウモロコシと違って乾燥してから収穫する)を更に天日干ししたトウモロコシをじっくりと塩茹でする。1日掛けてとにかく煮込むと殆んど形が無くなってねっとりとした粘り気のあるような見た目になる。これを冷ましてから近くのお店で更に細かく磨り潰してもらえば生地は出来上がり。
 ここからが、難しい!小さく丸めた生地を手のひらに水をつけながらパンパンと音を立てて叩きながら厚さ5ミリ、直径10センチほどの均一な大きさに広げていき、広げたトルティージャを専用の鉄板で一枚ずつ焼いていく。見た目には凄く簡単で素早い作業なのに、素人の僕がやってもなかなかまとまらない、直ぐに崩れてしまうのだった。

  朝起きた時、昼ごはんが近づいたとき、学校が終わって家に帰る時、まだガスを殆んど使わないマヤの家庭では、どこの家にも薪のキッチンが在り煙突が付いている。一つ一つの煙突から煙が昇り、「パンパン」とトルティージャを作る手を叩く音が各家庭からこだまする景色は、懐かしい日本の景色に似ている気がした。

  マヤの女性は誰でもトルティージャが作れる。ところが男性はいっさい作れない・・・と思う。作ったところを見たことが無いからわからないけど、中米では男性君主が依然と残っていて男性は全くといっていいほど台所に立たないのだった。もっぱら、力仕事でコーヒーの収穫やトウモロコシの収穫といった外での仕事をこなすのだった。
  日本では女性に権利を与えろ!なんて大変な騒ぎだけれど、中米や南米のモチズモを見ていると、女性に権利があると言うことは男性にとって「楽」な事なのだという事がよく分かる。
 マヤの女性達は家庭の仕事以外のことはしない。料理を作ったり裁縫をしたりと女性らしい仕事をする事が殆んどで、男性は車を直したり、家を直したり畑仕事をしたりと男らしい力仕事に従事するのだった。

 ペルーのティティカカ湖に浮かぶタキーレ島にも伝統的な男性君主が残っている。女性は男性の3メートル後を歩かなくてはならないし、夫以外の男性と話しをする事も許されていない。結婚するときには男性のために、大切な長い髪の毛を切って男性の付ける腰帯に自分の髪の毛を編みこんでプレゼントするほどだった。その代わり、男性はその女性の一生を保障しなくてはならないという事だった。

 つまり、女性は男性から迫害を受けているというよりは、守られている大切な存在だというイメージが強い。モチズモとはそういうもので、女性にとっては素晴らしい文化で、本来ならば女性には歓迎されるべき文化なのではないかと感じた。
 何で女性が男性君主を受け入れなくなってしまったのか。
  きっと、一部の甲斐性の無い男性が、モチズモを武器に女性に迫害を加えたのだと思う。それは、本当の男性君主とは言えるものではなく、自分の利益しか考えない間違った考えだった。
 時代の流れと共に、本来ならば守られるはずの女性は、タダで家に住み着く男性にとってムカつく存在になり、伝統的なモチズモの都合のよい部分だけを振舞う男性が増えてしまったんだ。
「日本の男性諸君よ!君は妻のために一生働けるのか!」
 自分の心に力強く問いただしてみると、男性にとって女性の社会進出は歓迎されるべき事だと思う。
 そんな訳で僕達二人の間も彼女が権力を振るう姿が度々見られる。二人の間で占める僕の役割は日に日に減って行き、尻に引かれてしまうのだった。フェミニズムとは男性に歓迎されるべき物になるのだろうか・・・。



「ながし目」

 まっすぐ何て見てられない
 恥ずかしくって見てられない

 チョット斜めにながし目で
 横から周りを眺めてる

 チョット離れてながし目で
 遠くで周りを眺めてる
 冷めた気持ちで眺めてる




「33の誕生日」
 世界旅行を始めてから5ヶ月経って、中米最南端の国「パナマ」へ入国した時に、33歳の誕生日を迎えた。場所は「ボケテ」という特に見所がない山間の小さな村。
  33歳の誕生日を、日本から遠くはなれた静かで綺麗な村で過ごせることが嬉しかった。静かな誕生日で、プレゼントもケーキもなく、旅の事も忘れて、とにかく何にもしないでホテルの前を流れる川の音を聞きながら、綺麗な景色を眺めてゆっくりと過ごす時間は贅沢な誕生日プレゼントだと思えた。
 最高に嬉しいはずなのに、ふと、わがままな自分が許せなく思えてきて、この世界旅行をするために迷惑をかけたいろんな人達が頭の中に浮かんできた。みんなにあやまりたい気持ちでいっぱいになった。
 何よりも親に対して今の自分の状況をあやまりたかった・・・。

 父が建築の設計の仕事をしていた事もあって自然と家を建てることに興味を持ち、中学校を卒業してから高校には自分の意思で建築科のある工業高校に進学することを決め、将来は建築家になることを志してた。建築が勉強したいといって大学まで行かしてもらった。何とか入った大学は地方の私立大学で、学費が高いうえに毎月仕送りまでして貰っていた。決して金持ちの家ではなかったのにそこまでお金を出してくれたのは、自分の息子が自分の仕事と同じ道に進むことが嬉しかったに違いないわけで、将来は立派じゃなくてもいいから建築家になって欲しいと少なからず息子に夢を抱いていたんだと思えた。33歳になって初めて親の気持ちが少しだけわかった気がする。
 大学を卒業して、小さかったけど建築の会社に就職した時、きっと、それでも親は嬉しかったろうし、初めての給料で家族に夕食をご馳走したときにはどれほど喜んだことだろう。
 だのにその会社も1年半で辞めてしまって、それからは、音楽をやったり、コックをやったり旅に出たりと他人から見ればどっちつかずのだらしない人生だった。自分で振り返ってもだらしない人生だったかもしれない・・・。それでも親は何も言わなかった。息子のわがままを黙認にして今でも自由に育ててくれている。今でもたいして変わらないだらしない人生を生きている僕に・・・。

 世界旅行に出る前に母が言った。
 「息子の夢に乗っかることにした。」「息子の夢は、あたしの夢だ」と言っていた。その時は何気なく聞いて聞き流してしまったけど、今頃になってその言葉がとてつもなくありがたい言葉に聞こえて、頭に響いた。
  この旅が終わる頃には貯金も殆どないだろうし、帰ってきたら、また、一から出直さなくちゃならない。年齢も35歳を迎えて無職のオッサンで情けなくなる状況にある息子の「世界旅行」というばかげた夢を彼女の心が必死で消化しようとしている状況がうかがえた。

  旅に出る日、愛情表現に不器用な父親が訳もなく買ってくれた「秩父饅頭」。これから世界旅行に行くのに何で「秩父饅頭」なんだ?親戚の家に遊びに行くんじゃないんだよ?と笑っていたけど。だらしない息子のことを必死で心配してくれている父親の心境がうかがえて、成田空港へ向かう列車の中で食べた秩父饅頭の甘さが口の中に蘇った。
  涙が自然とこぼれだす。僕の細く小さい瞳はすぐに涙でいっぱいになってしまう。もう少し目が大きければ涙がこぼれないで済むのに・・・。誰にも見られないうちにこぼれた涙をシャツの袖でぬぐう・・・。忌々しい水滴はまた瞳からポタポタと溢れだす。一歳年を取って涙腺がゆるくなったらしい・・・。

 その日母から誕生日のメールが届いた。
「先日は思いがけない電話、元気そうな声が聞けて嬉しかったです。ありがとう。 今日、3月3日はひな祭り、耳の日、そして仁の誕生日、おめでとう!仁が生まれた日と同じように今日もポカポカ陽気で、あの日の事思い出します、春の陽射しが差しこむ部屋でお産婆さんの鈴木さんの気合とともに頑張って昼に生まれました。楽しく、そして感動的な一瞬でした。お父さんも、お姉ちゃんも嬉しそうにじっとあなたを見ていたのを思い出します。その後近所の人達がどやどやと上がりこんで、生まれたばかりの仁のすがたを見て勝手に言いたいことを言いながらも喜んでくれました。あれから33年早いですね!これから先も命を大切に安全な旅を続けてください。」

僕は、こう返信した。
「記念すべき10カ国目の「パナマ」に入国しました。 本当は誕生日までに南米大陸に入りたかったんだけれど、一個手前の国までしか来れなかった...。 海外で迎える誕生日はこれで2回目になります。 33回目の誕生日、どの誕生日も毎年違った感動があった。今年はその中でも最も贅沢な誕生日に成ったと思っている。 自由奔放、贅沢の極み、こんなに楽しい人生を有難う。」

 自分のわがままが許せなかった。その反面、自分の親に感謝した。自分の親に自分が何をしてあげられるのか考えた。 何もうかばない・・・。ただ自信を持っていえることがあった。 「あなたの息子は他の誰よりも人生を楽しんでいます。生きてることが素晴らしいです。世界中の誰よりも素敵な誕生日を迎えることが出来ました。」心の中でそう思い、母にこの気持ちが届くようにと祈った。 来年の誕生日は何所に居るのだろうか・・・?
 南米


「パレット」

赤い気持ち、青い気持ち、

黄色い気持ち、緑の気持ちに黒い気持ち

いろんな色で「心」を塗りつぶす

長い間生きてきたら、パレットに色を置く場所がなくなっちゃった

どんなに晴れたすがすがしい青も

どんなに怒ったむかむかした赤も

なんだかチョット濁ってやがる

綺麗な色になりゃしない



「南米大陸上陸」
 中米と南米大陸の境、「パナマ」と「コロンビア」の国境は最も危険!歩いて(陸路で)渡ることは99パーセント不可能(死)だと言われている。国境付近の密林地帯は両政府も手を出せないほどゲリラの格好の住処になってしまっているのだ・・・。
 外務省の危険情報によるとパナマとコロンビアの国境付近(カルタヘナを含む)は、「渡航の是非を検討してください。」と観光目的で渡航することを勧めていない。

そんな危険な国境は、「空」を飛行機で飛んでしまうか、「海」を船で渡ることしか出来ない。僕達は、カリブ海沿岸の350以上の島が集まる「サンブラス諸島」に行くことも兼ねて、パナマの「パナマ・シティ」からクルーザーで5日間の大航海、一路コロンビアの海沿いの町「カルタヘナ」を目指すことに決めた。

とは言うものの太平洋側の「パナマ・シティ」からカリブ海側の「ポルトベーロ」の町までは、陸路で移動。「パナマ運河」でカリブ海まで抜けた訳ではない・・・。バスを乗り継いで3時間、太平洋からカリブ海まで「あっ」という間に着いてしまう。「なるほど・・・。」パナマに運河が在るのは、世界で最も太平洋とカリブ海が近かったからだ。

 カリブ海沿いの町「ポルトベーロ」はスペイン統治時代にその地理的な理由からとっても栄えた港町で、ここに在る要塞は現在「世界文化遺産」にも登録されるほど、なのだが・・・。世界遺産には無料で入れるし、資料館には1ドル掛かるのだが、管理している人が全く見当たらない。
 人影もまばらで、中国人経営のスーパーと、僅かばかりの観光客とヨット・ハーバーのお客を相手にする小さなレストランが数件、BARが1件在るだけの至って寂しい町である。この日は、寂しさに追い討ちをかけるような土砂降りの「雨」。船長も含めて航海に参加する12人のメンバー全員がBARで飲んだくれているから「本当に船が出港するのか?」と不安になる。が、僕たち以外のクルーはそんな事はいたって気にしてない様子だった。

  仕方ないのでBARの片隅で僕達も地元のおっさんの話に付き合いながら飲んでいた。この辺りでは日本人が珍しいらしく(中国人は一杯いるのに)ビールをおごって貰った。

  結局その日、船は出港しなかった。その晩は、6人乗りのクルーザーに12人のクルーで雑魚寝した。一人分の寝床は畳半畳ほどにしかない。

 翌日、昨日の雨は辛うじて止んだけれど、空の色はどんよりと悲しげだった。

 朝から船長はポルトベーロから一時間半の「コロン」の町まで出港の手続きに行った。昼を過ぎても帰ってこない。「昨日あんなに時間があったのに何で今日行ったのだろう?」中米の人の感覚は理解不能と思っていたら船長は「コロンビア人」。バリバリの南米人だと言うことを思い出し、先行きがますます不安になる。

  結局この日も有り余った暇な時間を潰す為に、仕方無くビールを買って「世界遺産」の中で海を眺めながらビールを飲むことになった。

 夕方になってやっと船長が帰ってきた。船の中で夕食を済ませた後、船長のおごりで乾杯のワインが振舞われいよいよ出港!明日の朝にはサンブラス諸島の入り口「ポルベニ−ル島」に着いている。初めての航海にドキドキと鼓動が高鳴るのを感じた。その鼓動の高鳴りを抑えるように予め船長から配られた酔い止めを飲んだ。

 しばらくすると薬が効いたからか眠気が襲ってきた。僕等以外のクルーは船室の狭さに耐えられず甲板で夜を明かすつもりらしい。僕も、外に出ようかと考えたけど夜の海は真っ暗でどうせ何も見えないだろうと思って諦めた。

  僕の考えは結果的には大正解だった。
 港を出るまで殆んど揺れていなかった船は、外海に出て、次第に揺れ始め、何所かにしがみついていても飛ばされてしまうほどの大きな揺れになった。「縦」に「横」に「上」に「下」にとあらゆる方向に船が揺れる。船の中にあるものがガラガラと音を立てて落ちる。天井からは水が垂れてくる。立つ事は到底出来ない。寝転んでいても何かに掴まっていないと何所に行ってしまうか分からないような状態が続き、次第に気分は悪くなる。夕食のスパゲティーが喉まで上がってくる。吐きに行きたくても余りに揺れが酷い上に真っ暗な船内で、トイレまで辿り着きそうにない。仕方なく我慢して寝る。熟睡できる訳もなく、遊園地のパイレーツの中で一晩を過ごすような感覚だった。シートベルトも安全装置もない船は、いつ沈没してもおかしくないと思った。

  最高の気分でサンブラス諸島に着いている筈だったのに・・・。

 船の甲板で夜を明かそうと寝転んでいた僕達以外のクルーは吐きまくり、海水を浴びてずぶ濡れ状態だった。こんなに船が揺れるなんて想像していなかったけど、出港前に渡された酔い止めの意味が今頃になってやっと解ったのだった。

 どれ位時間がたったのだろうか、船の揺れはだいぶ収まってきた。頭の中では脳みそがグルグルと回り続けている。胃の中でも何か奇妙な生き物が動いているような気分だった。目を開けると薄暗い船内は嵐の後の様に散らかっていた。気分を晴らそうと船の外に出る。

  灰色に覆われた空の隙間から光が刺して、所々青い空が覗いている。透き通るような青い海の上には小さな無人島のような島がたくさん見える。
「天国」に着いたかと勘違いするような景色。

「ああ、サンブラスに着いた。」「生きてて良かった。」
頭と胃の中の気分は一向に晴れないが、心の調子は一気に回復した。

 僕達がやって来た島は「クナ」と言う「インデヘナ」(原住民)が3家族ほど住む小さな島。宿泊施設も無ければ電気も通っていない。青い海だけが360度広がっていて、島の砂浜から海の中を覗くと水族館のように魚達で溢れている。魚達は人間をそれほど警戒するわけでもなく、一緒に泳いでくれる。

 この島は地形の影響で島の周囲100メートル位の所で「ゴー」と、絶え間なく大きな波が立っている。大きな波は砂浜までは届かずに消えてしまう・・・。
 遥か遠くの日本からは想像も出来ないような景色。「本」の中や、「ブラウン管」の中でしか見たことのない景色。日本に居る時にその中に自分がいる姿を何度も想像したことがあったけど、その中に本当に自分がいる。「充実感」と「幸福感」を潮風と一緒に体中で深呼吸し、秘密のエキスが全ての細胞に行き渡り、体中の細胞が若返り活性化されて行く感覚になる。

  島の砂浜から海に入ると魚たちで溢れていた。海の中は彼等の住処で人間が土足で立ち入ってはいけないような気がして「お邪魔します。」と、心の中で魚たちと挨拶を交わした。魚達に通じているのか通じていないのか、僕を怖がる訳でもなく一緒に泳いでくれる。

 大自然の真ん中ではこんなにゆっくりと時間が流れているものかと思っていたのに、次第に辺りは赤く染まり大きな太陽が海の底に沈んでいった。
  ゆらゆらと揺れる水面は僅かな月明かりをキラキラと反射する。

  空を眺めると雲の隙間から明るい星達が覗いている。日本で見るそれよりもはるかに明るい・・・。
 バックグラウンドミュージックには、遠くから聞こえる、鳴り止まない「ゴー・ゴー」と言う波の音。船にあたって弾ける「チャップ・ピチッ」と言う小さな波の音。耳を斬る風の音だけ。
  「ぼーっ」と空を眺めていると身体が空気になって、つむじ風のように夜空に舞い上がってしまいそうな気分になる。
 
  12人のクルーの中の一人、イタリア系スイス人の「グラシアーノ」が左利き用のクラシックギターを静かに引き始めた。ろうそくの光のような白熱電球の薄暗いオレンジ色の船室の中で静かにギターに聞き入った。物語のワンシーンのような船内。前日の夜の喧騒が嘘のように静かな夜。昼間泳ぎすぎたせいで眠気が大きな波のように襲って来た「おやすみなさい・・・。」

いよいよ南米大陸だ!


「動物園」

お前は幸せか?
檻の中のチンパンジーに声を掛ける
少しは頭の良い彼等なら
何か答えが返ってくるかと期待したのに
何も答えてはくれなかった。

俺は幸せか?
自分の心に声を掛ける
少しは頭の良い自分なら
何か答えが出せるかと期待したのに
何も答えは出せなかった

あんたは幸せか?




「コロンビア」
 日本人に「コロンビアってどんな所?」って聞いたら、
「危ね〜」とか「おっかね〜」他には麻薬だったり、テロだったりと悪いイメージしか思い浮かばない気がする。確かに、麻薬も作ってるしテロも多い。誘拐事件なんかも頻繁に起きてるけど、殆んどのコロンビア人は人懐っこくて陽気だった。道端で目が会うと直ぐに話しかけて来る。何かを企んでる訳じゃなくって、「楽しいから」ただそれだけだと思う。

 街を歩いていれば、ショットガンを持った警官や警備員がビルの前や街角にいるのを良く見かける。最初のうちは、一体何が起こるのか?そんなに危険な事があるのか?と不安に感じたものだけれど、それも市民の安全を確保するための物。今時、銃も持たないで警備が出来てしまう日本が異常なだけなんだ。

 殆んどの外国人が日本に来れば、銃を持たない日本のずさんな警備に開いた口が塞がらないに違いない。一般的に考えれば、何も起こらないのが不思議で、何かが起こることを前提で完璧な警備をするのが常識。そんな事も日本が平和ボケだと言われる所以なのかもしれない。

 日本では、「強盗をしたらいけません。」「人を殺してはいけません。」そう言うだけで大丈夫。それだけで新聞に載せられないほどの数の殺人事件が毎日起こるわけでもなく、数え切れないほどの強盗や窃盗が起こるわけでも無いから。

 日本人からすればあらゆる危険が渦巻いているように思われるコロンビアだけど、僕達が旅行している間に一番怖かったのは「交通事故」。
 
 なぜなら、テレビで見るのは毎日の様に報道される交通事故。バスが谷に落ちてしまったり、正面衝突をしたり。毎日どこかでバスやタクシーのような公共の交通機関が事故を起して人が亡くなったり、怪我をしたりしている。
 僕達がコロンビアに来る1ヶ月くらい前にも、日本人がバスの転落で亡くなっていたから、移動をするときが一番緊張した。

 頻繁に起こるバス事故とは裏腹に、コロンビアの交通ルールは意外に厳しくて、主要道路では頻繁に検問があり、警察が乗り込んでは正しく運行されているかどうかチェックして回る。
 コロンビアではバスやタクシーなどの交通機関は乗客に分かるようにスピードを表示しなくてはならないから、バスに乗ると必ず一番前にデジタルのスピードメーターが付いている。このスピードメーターは時速80キロを越えると「ピーピー」と警笛を鳴らしてスピードオーバーを乗客全員に知らせる仕組みになっている。  
 この機械が正常に動いているかどうかと運転手のシートベルトが着用されているかをチェックする。    

 実際の所、バスの運行中は殆んどの運転手がこのメーターの電源を切っていた。広いコロンビアで流石に80キロ制限は遅すぎる。

 はっきり言ってコロンビアのバスの運転手は運転が荒い。しかも道路事情が悪く、殆んどの主要道路は片側一車線、つまり反対車線に飛び出さないと追い越しは出来ない。だから、遅い車を追い越すたびに緊張感が走る。
 山道なんかでは舗装されていない所も多い。ガードレールも設置されていない。一歩間違えれば谷底に一直線、生きては帰って来れない。

 僕達がコロンビアを回っている間に事故を起す事は一度もなかったけれど、旅をしていると移動中に事故を起した話を聞くことがある。  
 もしかしたら、旅行中に旅人が一番気をつけなくてはいけないのは交通事故かもしれない。移動のためのバスやタクシーは慎重に選びたいものだ。運転手が酔っぱらっている事も海外では意外に普通なのだから・・・。


「生きるということ」
 人生の良し悪しを測る定規があるのだろうか?
誰かが死んだ時、「あいつの人生は良かった。」「あいつの人生は悪かった。」と言うのは、それなりの尺度を持ての事だろう・・・。

「じゃぁ、僕の人生を定規で測ったら?」

 その答えを出したかったのも、世界旅行を始めた一つの理由だった。日本に居たとき,、その答えが世界のどこかに在ると信じてた。

 ペルーに入国したのは、5月に入ってからで南半球のこの国では「秋」にあたる季節だった。エクアドルから国境を抜けるとコロンビアから続いてきたアンデスの景色は、突然無くなり一面の砂漠が広がっている。

  「暑い!」
 日本では、紅葉などで一年の中でも一際、情緒を感じさせる季節だというのに、僕の目の前には殺風景な砂漠に、バラック小屋が建った景色が地平線まで続いているのだった。
 
  旅をする前、僕が想像したペルーといえば、白い雪をかぶったアンデス山脈に、カラフルな衣装を纏ったインディヘナ。コンドルの飛ぶ何所までも高い空に、フォルクローレの調べだったから・・・「参ったな〜」これが僕のペルーに対する最初の印象で、正直言って期待を裏切られた気分だった。

 ペルーに入国した僕たちは「カハマルカ」と言う、いかにもペルーらしい街でインカの皇帝も入った温泉につかった後、あれほど期待していた折角のペルーの雰囲気を捨てて、暑いアマゾンに向かう。

 ブラジルのイメージの強いアマゾン川がどうペルーと繋がるのか想像しにくいけれど、世界最大の流域面積を誇るアマゾン川は、その源流をブラジルから遥か6千キロ以上も西側のペルーにも持つのだった。アマゾンの町「イキトス」。アンデスの山々から流れ出した小さな川はいくつもの川とぶつかり合って川幅を広げ、この町からアマゾン川になる。

  ブラジルの河口付近では、川幅が400キロ以上にもなるアマゾン川のあまりの巨大さに、そこが川であるかどうかを確認することが難しいというけれど、源流に近いイキトスのアマゾンは明らかに川であることが確認できるぐらいの広さ。それでも日本に在るどの川よりもでかい。

 イキトスに向かうためには、ユリマグアスというアマゾンの源流マラニョン川にある小さな街から3日間、船に乗って川を下ることになるのだけど、アンデスの町カハマルカから、アマゾンの町ユリマグアスまで向かう途中、長袖でも肌寒く感じていた気温は次第に暑くなり、半そでを着ていても汗が噴出すくらいまで上昇する。殆ど生えていなかった木が生い茂り、ジャングルになり、乾燥と日焼けで赤黒く感じていたペルー人の肌の色は、しめりっけを帯びたつやのある黒い肌に変わる。何もかもが一日前の景色とは変わってしまう。寒さのためか動きが鈍く見えた人々は活発になり、おとなしく静かなイメージのペルー人はうるさくて騒々しい存在に成った。
 
 乾季の太陽は、眩しいというかそれ以上の表現が必要なんじゃないかと考えてしまうくらいに埃まみれの赤茶色の大地に降り注ぎ、これでもかと言うくらいに水分を奪っていくのだった。

 ユリマグアスでは毎朝、市が出る。並んでいる食材は、アマゾンに住む巨大な淡水魚パイチェやピラニアに似た魚、ナマズなど、日本では淡水魚屋さんで観賞用でしか手に入らないような魚たちが食用に並んでいるのだった。極めつけは「亀」。ひっくり返された亀が生きたまま並んでいた。見るもの全てが日本の常識では測れなくて、驚いたと言うより感動に近かかった。

  船でアマゾンを目指す当日。船着場は人で溢れかえっていた。(船着場というほどの物ではなく船が岸に横付けされて木の板が架かっているだけ。)船に乗る乗客も勿論集まっているけど、それ以上の数の荷物運びの仕事をする人たちが集まっていた。

 この船は、乗客のほかに大量の食料品や家畜などの運搬用にも使われている。日本の様に機械で船の中に荷物は積まれないから、すべて人力で運ばれる。トウモロコシに、食用油、炭酸飲料にプラタノ(バナナに似たフルーツ)など、まとめて40キロ以上在る荷物を背中に乗せて一人づつ、少しづつ運ぶ地道な作業を船の上から見ると、まるで、「蟻」が巣の中に食料を運ぶのを観察しているかのような錯覚に陥る。作業をする男達は汗まみれ、休む事も無くひたすら荷物を運ぶ、日に焼けた黒い肌は滴る汗でより黒く光って見える。その姿は暑苦しいというよりはすがすがしく僕には写った。

 全て荷物が積み終わる頃には日が暮れ始めていた。仕事を終えた男達はアマゾンの水で汗を流す。夕日に照らされたその姿はよりすがすがしく感じさせるのだった。

 全てが終わったように思われた作業は、メインイベントを